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「お仕事はなにをやってるんですか?」
「事務員です」
「あ、やっぱり大変ですか? 自分、パソコンに入力とか本当に苦手なんです。表計算ソフトも全然駄目で」
真は相変わらず、人を楽しませるという上では優れていた。
美容師やホストがしているのと同じ。私がボールを投げ返したら、ひたすらその内容を褒めておだててのぼせ上らせてしまう。
あいつ、あの頃から女性をのぼせ上らせることだけは上手かったんだなと、勝手に感心した。
仕事の話から、スマホやパソコンの話に変わり、スマホのアプリでどんなものを使っているのかという話に移ったところで、予約しておいたイタリアンの店に辿り着いた。
「なに食べたいですか?」
「なんでも。あっ、ナポリタン食べたいです」
「イタリアンじゃ注文できないんじゃないですかあ?」
真が無知なのか、無知のふりして女に優越感を与えているのか、今も昔もよくわからない。
食べている間も、真はひたすら冗談を飛ばしていた。それにだんだん、私はおかしくなって笑っていたら「やっと笑った」と真は微笑んだ。
「えっ?」
「ゆきさん、全然笑わなかったんで。もっと砕けてしゃべってよ。デートでしょう?」
そう茶目っ気たっぷりに言ってくるのがずるい。
私たちの関係は、どう見ても頭のおかしいものだったし、振り返ってもまともとは言いがたい。でも。真としゃべっていると同棲していたことをぼんやりと思い出す。
なにもかもが嫌になり、逃げだしたくってもその気力すら奪われていた私は、たしかに彼に救われたのだと。
もう音楽を辞めたのか、ギターを捨ててしまったのかは、レンタルしているのに聞いては駄目だろう。
結局頼んだランチコースはボンゴレロッソで、久しぶりにきちんとした料理だった。久しぶりにおいしいと感じられる料理を食べた。
ランチを食べ終わったら、少しだけ時間が余った。余った時間を、真に手を取られて散歩する。
これはサービスの一環なのか、真の独断なのかの判断がつかない。
「満足した?」
「……昔のことを思い出した」
「昔のこと?」
「初めて付き合った人は、高架下でギターを弾いていたの」
真は覚えていないのかもしれないけれど、私はひとりで勝手にしゃべる。彼は顔色ひとつ変えることなく、私の手を握る。大きな手の感触が心地よく、私は勝手に言葉を続ける。
「その人がいい人だったのかはわからない。でも、その人がいたから、今の私がいるの」
「ふうん……そっか。ゆきさんの、いい思い出なんだ?」
優しく聞かれて、私は頷いた。ちらりと時計を見る。もうちょっとしたら、私の真の拘束時間は終わり。私たちは待ち合わせ場所に戻る。
最後にちらっと真が言う。
「またデートする? もちろん、俺じゃなくってもいいけど」
それに私は言葉を詰まらせる。
派遣社員の私は、そこまでお金がない。今日はまだ余裕があったからいいけど、次いつ余裕が生まれるのかなんてわからない。
だから私は笑って頷いた。
「また連絡するから」
会社の連絡先でしか通じるものがないんだから、これでいい。最後に会釈して立ち去ろうとしたら、軽く真が手を持ち上げて笑った。
「センキュー」
下手っくそな英語は、私のよく知っているものだった。それに思わず吹き出しそうになりながら、私たちは別れた。
もう彼氏彼女に戻らないだろう関係。当然、未来なんてない関係。
でもその関係はひどく楽で心地いい。きっと私は、またお金を払うのだろうと思いながら、駅へと向かっていった。
<了>
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