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西国観音巡礼(丹後、若狭路) 平成26年5月30日~5月31日
第二十八番成相寺・第二十九番松尾寺
5月30日(金)晴れ
西国観音巡礼を自転車で始めた平成22年4月、那智勝浦から青岸渡寺・熊野三山を参拝し、京都上醍醐寺まで14の札所を巡った。その後の5月には、京都に預けていた自転車を車で引き取りに行く旅程を伸ばし、二十番善峯寺、二十一番穴太寺、二十二番勝尾寺までの参拝を済ませていた。
この後の札所には、いつかは行くことになると高を括っていたところ、知らぬ間に四年が過ぎ北陸から近い札所からと考え丹後・若狭路へ向かうことにした。再び自転車を使うかとも考えたが、あの過酷な急坂に加え六十歳代も半ばを過ぎてしまうとやはり気力が衰え、これからは車で巡ろうとしている。また早朝に出れば一日で巡ることも出来るのであろうが、折角の旅になるので途中の民宿で一泊の予約を入れている。
午前9時30分、家内を乗せて自宅を出発し、北陸道で一路、敦賀を目指している。いつも通り徳光や尼御前などのサービスエリアを巡り、敦賀インターで一般道に出る。道路は改良されており、気分よく走って小浜西インターで舞鶴若狭道に入る。ただこの数日後には、この舞鶴若狭道が敦賀まで延伸されることになっていた。単線となる舞鶴若狭道の景色を楽しみながら軽快に走り、綾部ジャンクションの手前になる綾部PAで車を止めた。このPAでは数年前に、拙書;鬼の風聞を書くため大江山とその周辺を探索しようとして、ここで車泊をしたことがある。趣味の小説であっても物語を書き進めるためには、やはり現地を確かめることは風景描写に必要と思い、車で二泊の旅をした思い出が蘇る。それは個人の事情でもあるが、父方の祖先がこの大江山近郊の出身であり、小説の背景に何らかの影響を及ぼしていたのかも知れない。
ここから綾部ジャンクションに進み、京都縦貫道に入ると宮津まで一気に走っている。 宮津インターを出て国道178号線に入り、すぐにあった宮津トンネルを抜けると須津の交差点になる。ここから丹後半島に向かうことになるが、かつて関西に住んでいた頃、丹後伊根の筏釣りに行った道である。睡眠時間もままならぬ夜半に出て、片道約4時間を要する釣りに、今思えば、よくもこんなに遠い所まで来ていたものと考えざるを得ない。ただ、この頃の道路の景色はほとんど記憶に残っておらず、遠路はるばる来ていた割には大した釣果も得ていなかったことだけは覚えている。この道路を進み、天橋立に隔てられた阿蘇海の東端となる岩滝町を通り過ぎると、やがて成相寺の標識を目にすることになる。標識に従い山の手へと車を走らせ、やがて山中へ入ると、道の傾斜が極端にきつくなる所が現れる。これを自転車で登ろうとすると相当きつい坂で、あの紀ノ川沿いの妙寺から施福寺に向けて登った蔵王峠を思い出さざるを得ない。見上げると峠へ続くガードレールの白い帯が蛇の様に曲がりくねり、まるで天界へと誘われている思いであった。恐らく、ここを自転車で登るならあの時と同じに、えらいしんどい思いをして押し上げなければならないことになる。そのような当初に始めた自転車巡礼旅のことを思い出しながら、自動車のアクセルを踏んでいた。急坂はまだまだ続いており、どこまで登るのかと思っていた時、ようやく駐車場と思しき小屋を見つけた。いそいそと車の傍にやって来たじい様に料金を支払い、展望台があることも聞いていた。西国第二十八番札所成相山成相寺、ここは平安時代後葉の院政期には、伊豆走井・信濃戸隠・駿河富士と並ぶ四方(よも)の霊験所(梁塵秘抄より)であった。だが、それより更に遡る古から、多くの修験者が山岳を跋渉する抖擻(とそう)の行をしていたことが伝えられている。その様な修験者の一人に真応がおり慶雲元年(704年)に、この寺を開基したと伝えられている。ある日、見知らぬ老人に聖観音像を託された真応は、一宇を建てて像を安置した。その後、大雪の続いた冬に食べる物が無くなり餓死寸前まで追い詰められた時、一頭の鹿の亡骸を見つけた。そこで、空腹には耐えられず、やむを得ず肉食を禁ずる戒律を破戒し、その鹿肉を食してしまった。雪が止み真応を案ずる里の者が訪れると、鍋には木片が残っていた。ふと像を見ると腿の辺りに欠けた所があり、その木片を付けると元の姿に戻ったという。この仏の奇瑞(きずい)、即ち傷口が成り合ったことが、寺名の由来とされている。亭々と聳え立つ大木が両脇に並ぶ石段を登り、本堂の前に立って参拝をしていると、往古の修験者の誦経の声が聞こえて来る様であった。
駐車場に戻り、更に車で山頂へと続く道を走っている。50mほど高度を高めたであろうか、展望台の駐車場に着く。直ぐ前には若狭湾が広がり、風に黄砂が舞い込んでいるのであろう茫漠とした光景の中に天橋立が海上に浮かんで見えている。古の巡礼者なら瀬戸内姫路の第二十七番円教寺から播磨・但馬・丹後の山中を越え、日本海を望むこの地に至るまで、苦難の長い歩きの旅を重ねたことであろう。その歩きの果てに、ここから見た天橋立の光景は、どの様に映ったのか。恐らくは昇龍のごとく、観音浄土へと導く夢の架橋に見えたことに違いない。やはり、ここは日本三景に選ばれるほどの絶景でもある。
波の音 松のひびきも 成相の 風ふきわたす 天の橋立
この様なことを思い浮かべながら写真を撮り、この地を後にした。急峻な坂道を車で下り、国道178号線で宮津から由良浜に向かう。左手に若狭の海を見ながら海岸に沿った道を走ると、民宿海月楼の看板を見つけた。泊り客は他に無く夫婦二人で広い客室を存分に使っている。裏手は直ぐ砂浜に繋がっており、海水用シーズンともなれば多くの海水浴客で賑わうのであろう。砂浜を歩いていると、目の前には穏やかな海が淼漫(びょうまん)と広がっており、自分にとってこの地が京都であることに懐かしさを覚えている。そんな京都の北辺の砂浜を長閑に歩いていることが、何故か言い知れない安堵の気分にさせてくれていた。そして、民宿に戻ると温泉に浸かり、夕食にはアワビの踊り焼き・若狭牛の焼肉を存分に食べていた。
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