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5月31日(土)晴れ
穏やかな朝を迎え、朝食の前に浜辺を散歩している。土曜日の休みに投げ釣りをしているのか、ぽつりぽつりと砂浜に竿を立てている人の姿を見かける。四国一周の車旅をした時、足摺岬手前の大岐海岸でした様に、家内が砂浜の貝を拾っている。これも一つの思い出になるのであろう。朝食を食べ終えると民宿を後にして、由良川左岸を遡っている。この辺りは森鴎外の山椒大夫に書かれた石浦になり、安寿と厨子王が人買に売られた先である。
『石浦という処に大きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさせ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者がいて、人ならいくらでも買う。』
しかし、車で走っていると、安寿が入水してまでも厨子王を逃したと言う悲しい話の縁(よすが)を確かめる術も無く、ただ素通りをしただけであった。それから八田という所で由良川を渡り、滝尻峠を越えると舞鶴になる。
道の駅舞鶴とれとれセンター、この様な所を見つけると直ぐに立ち寄ることになる。ただ時間が早いせいかまだ開いていない。そこで脇にあった産直売場で野菜を購入しており、いつもながらの道の駅巡りで、旅の楽しみの一つになっている。ここを出て東に走ると、間もなく舞鶴東港で海上自衛隊の基地になり、赤レンガ倉庫が立ち並ぶ駐車場で車を止めている。この倉庫は、帝国海軍舞鶴鎮守府の軍需物資保管施設で重要文化財になっている。中に入ることは出来ず、周囲を回っただけで港から続く湾岸を見に行った。そこからは海上自衛隊の艦艇が並ぶ光景が見られ、かつては帝国海軍の軍港であったことが偲ばれる。当時、ここを見下ろせる近辺の山は全て登山禁止になっており、若い頃に登った若狭・丹波の国境尾根にある頭巾山も登山禁止の山であったと記憶している。戦後には、シベリア抑留者の引揚げ船が接岸した港であり、悲喜交々の場面が繰り返されたであろう。しかし、今は表立っては平和な世となり、穏やかな陽射しの下で親子連れが竿を垂らしていた。
ここを出て国道27号線で更に東に向かうと、山中を通り京都府と福井県の県境近くで松尾寺の標識を見つける。細い道を山へ登って行くと、青葉山への登山客であろう数人の人を追い抜いている。登りは更に続き、この細い道の終点が松尾寺の駐車場であった。西国第二十九番札所となる青葉山松尾寺、西国観音霊場の中で馬頭観音を本尊とする唯一の寺である。頭上に馬の顔を戴き、明王の性格を併せ持つことから観音には珍しい忿怒の相である。六道のうち畜生道の衆生を守る観音であり、家畜や車馬交通の守り神とされている。若狭富士として名高い青葉山の中腹に、潜むような古蒼のある佇まいには閑寂な風趣を感じられる。本堂で参拝を終え、脇にあったお守り売り場で交通安全の錫杖を購入している。
再び国道に戻り東に向かうと、左手には若狭の海が渺茫と広がり、かつて筏釣りに通った青戸大橋の付け根にある林渡船も見られた。やがて道の駅シーサイド高浜に着くと土産物を買い求め、海岸で海を見ている。やはり思い出すのは、この辺りで釣りをしていた頃のことであり、数十年の星霜が過ぎ去ってしまった。あの頃の釣りに傾けた熱意とは何だったのか。幾度もきつい思いをした仕事での労苦。この刻苦とも思える現実からの逃避であったのかも知れないが、それを乗り越えたからこそ今がある。こんな懐かしさの残る若狭路での二日間を過ごす中で、二つの札所の参拝も終え北陸への道を走っていた。
この後は小浜より三方五湖の傍を抜け、途中にあったへしこの専門店で土産物を買うと、敦賀インターから北陸道に入り帰路に付いていた。
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