1人が本棚に入れています
本棚に追加
令和元年 東近江三カ寺、谷汲華厳寺巡礼
令和元年6月10日(月)雨 第三十二番 観音正寺、第三十一番長命寺
播磨の札所を巡ってから二年近くが過ぎ去り、元号も平成から令和へと改元されている。西国三十三カ所観音巡礼の結願に向け、何時旅立とうかと思案していたが、昨年の夏頃より歩くと悩まされる腰痛に出不精に陥っていた。なかなか思い切りが付かないでいたが、今年の念願でもあり、漸く踏ん切りをつけて出で立つことにした。残りの札所は、東近江の三カ寺と結願寺となる美濃谷汲の華厳寺であるが、既に自転車で回る体力と気力は失せており、致し方がなく車で回ることにした。そこで、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺は船で渡ることになり、これに要する時間を考えると一泊の必要がある。そのため渡船の地である長浜にホテルを予約し、6月10日の早朝に家を出ている。
北陸道を一路大阪方面へ車を走らせているが、曇り空からは時折、雨粒が降り出し、県境の山中では雨量が増している。ホテルを予約した時には晴れマークを確認していたが、寒気の流入で気候が不安定になっている。福井県の敦賀から滋賀県へ至る山中では、驟雨がフロントガラスを叩き付けている。思えば石山寺から三井寺へ自転車で走っている時に、出くわした大雨に似た様相であり、あの時は三井寺の山門前で正に土砂降りとなっていた。
賤ケ岳のSAを過ぎると雨も止んでおり、快調に北陸道から名神道へ入った。ところが、ここでは修復工事の真只中で長々と続く車列が出来ていた。しかし、停車するまでには至らなかった渋滞の中を、漸く八日市ICから出て観音正寺へと向かっている。八日市市内の車の通行は流石に多く、日頃、車の混んだ道路を走ることが少ない者にとって、この様な道路は辟易する。それでもカーナビに従って走っていると、やがて小高い山を左に見て回り込んだ所に観音正寺への登り道を見つけた。ここは寺の裏参道となる駐車場へ向かうことになるが、車のすれ違いにも難しいと思える細い道幅の道が山の頂上へ向かって続いている。この道の中ほどの料金所で通行料を払い、いよいよ本格的な登山道を登って行く。途中にはがけ崩れと思える道端の崩落も見られ、降り頻る雨の中で一台の車とすれ違い接触を避けるにも難儀な道であった。札所の中でも難所とされた標高433m、繖山(きぬがささん)の頂上近くにある寺の駐車場に到着する。連休であれば恐らくは満車になっていたと思える15、6台ほどの駐車スペースには、3台の車が停まっていた。
駐車場の端には、西国第三十二番観音正寺と彫られた石柱が建てられている。この石柱の横に続く山道を、降り続く雨に傘を差しながら登ることになる。所々で川のようになって流れる雨水を避けながら山道を登っていると、道端には人生の教訓を示す立札が十メートルほど毎に立てられていた。雨に拉げる心を癒してくれる言葉に励まされつつ、立札の二十数個を過ぎ10分ほども歩いた時、山手側に城壁とも思える石積みの壁が現れた。今もこの山の頂には観音寺城の城跡が残っているが、かつては山全体が城塞であった。室町時代には近江源氏で守護大名佐々木氏の嫡流となる六角氏が山上に城を築き、寺は麓の観音谷に移転させた。鎌倉時代初期に佐々木信綱の子である秦綱が京の六角堂に居を構えたことより六角氏を名乗り、弟の氏信が京の京極高辻に居を構えたことで京極氏を名乗っている。二つに分かれた佐々木氏は北近江を京極氏が、南近江を六角氏が支配していた。戦国の世に六角義賢(承禎)は足利義輝を庇護し入京させたが、永禄十一年(1568年)織田信長の上洛の際に抗して敗れ寺も灰燼に帰した。再び、山の上に寺の再興を果たしたのは、慶長二年(1597年)に教林坊の宗徳法橋の手による。
石積みの壁を横に見てしばらく歩くと、雨で霞む向こうに小屋が見え、ここで参拝料金を納めることになる。ようやく平地になった参道の奥には十一面観音を祀る本堂があり、この横の山手には子供の背丈ほどの石が林立する懸崖が、本堂を圧迫するが如く迫っている。何か意味があるのかと思っていたが、土砂崩れの防止のために積み上げたようで、それでもこの石積みの中には数体の観音菩薩が祀られているようである。本堂の右手で靴を脱ぎ、階上に上がって参拝を終えると、数人の参拝者が納経所に並んでいた。この雨の中でも奇特な人々がいるものと様子を見ていると、全てが掛け軸を広げて御朱印を押してもらっている。近年、各地の寺で御朱印を集めるのが風潮になっているとテレビで見ていたが、西国観音霊場でも御多分に漏れていないようである。納経を済ませ本堂の回廊より景色を眺めていると、やっと雲が切れ始め眼下に広がる蒲生の里には、新幹線の車両がまるで玩具を見ているように通り過ぎていた。
帰りは下り坂の気楽な道で駐車場に戻り、再び細い道路を下っているが、一度走った道はあまり怖さを感じていない。下り切った交差点で左に回り、直ぐにあったキヌガサトンネルを抜ける。道は山間を通り、開けた所に出ると、そこは安土城跡の前であった。この城跡には現役の頃に一度訪れたことがあるが、織田信長が築いた天下布武のための基になっていた城があった。急な石段を上がる大手道の左右には、羽柴秀吉と前田利家の屋敷跡があり、本丸近くには嫡男である織田信忠の屋敷跡があったと記憶している。平地になっている本丸跡は、陽射しを遮るかのように鬱葱と生い茂る樹木に覆われているが、ここにはかつて世の人々を驚嘆させた勇壮な天守が威容を誇っていた。覇王と恐れられ、自らを神と崇めさせるために山の中腹には摠見寺を建立させた信長。その夢の跡を横に見ながら、車を長命寺へと走らせていた。途中にあったコンビニで昼食の弁当を買い込み、長命寺登り口にあった港で食べている。この登り口には古風な蕎麦屋があり、食べ物屋を探しながらここまで来たのも後の祭りであった。小雨が降り続く中で、第三十一番札所長命寺への登りに掛かっている。麓からは808段の石段があるが、ここも今の腰の状態を考えると車で登らざるを得ない。本堂直下の駐車場は、満車に近かったが片隅に車を停め、30段ほどの石段を登ると朱色の三重塔が見下ろす本堂脇に着く。そこで直ぐに目に付いたのが、琵琶湖周航の歌碑であった。
第一番「われは湖の子さすらいの」の歌詞で始まる歌は、大正6年(1917年)京都第三高等学校漕艇部部員小口太郎によって作詞され、ひつじぐさ(作曲吉田千秋)のメロディーに乗せて歌われた。その後、三校の寮歌として伝えられ、その第六番の歌詞がこの寺を描いている。
西国十番 長命寺 汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
黄金の波に いざ漕がん 語れ我が友 熱き心
昭和46年(1971年)加藤登紀子により大ヒットしたこの歌に、当時何の疑問も持たなかったが、西国観音巡礼の三十一番札所がなぜ十番と描かれているかである。色々とネットで調べると、あまり深い意味はなく歌い易い歌詞の語呂合わせのようである。ただ作詞者は、十という数字は十分の意味があり、九以下でなく十以上の全てを満たしていると考えたのではないかと思われる。
もう一つ思うのは琵琶湖周航の歌と混同され易いが、琵琶湖遭難史を描いた琵琶湖哀歌である。
昭和16年(1941年)4月6日、金沢第四高等学校(現金沢大学)漕艇部8名に京都第三高等学校(現京都大学)学生3名を加えた11名がボートに乗り、高島郡今津町より午前7時頃に出航した。ところが午後の6時になっても戻らず、翌日より捜索が開始されたが11名の遺体を発見するのにほぼ2か月を要した。事故の原因は、春先に起こる比良山から吹きおろす比良八荒と呼ばれる風である。まだ遭難者の捜索が続けられている昭和16年(1941年)6月、テイチクレコードから出され東海林太郎と小笠原美都子が歌った。
観音巡礼の途中でもあり、遭難者の冥福を祈り歌詞の全文を記載しておく。
・遠くかすむは 彦根城 波に暮れゆく 竹生島(ちくぶじま)
三井(みい)の晩鐘(ばんしょう) 音絶えて なにすすり泣く 浜千鳥
・瀬田の唐橋(からはし) 漕(こ)ぎぬけて 夕陽の湖(うみ)に 出で行きし
雄々しき姿よ 今いずこ ああ青春の 唄のこえ
・比良の白雪 溶けるとも 風まだ寒き 志賀の浦
オールそろえて さらばぞと しぶきに消えし 若人よ
・君は湖の子 かねてより 覚悟は胸の 波まくら
小松ケ原の 紅椿(べにつばき) 御霊(みたま)を守れ 湖の上
この寺の開基は聖徳太子であるが、その因縁となったのが、この地の柳の古木に記された「寿命長遠所願成就」という武内宿禰の文字であった。第12代天皇である景行から成務、仲哀、応神、仁徳まで5代244年に亘って仕え、驚異的な寿命を持っていたという。後の世に聖徳太子が、この柳の木の文字を見て観音を感得し、十一面・千手・聖の三観音を本尊として祀った。このような謂れを持つ寺のご詠歌にも、武内宿禰の長命が籠められているのであろう。
八千年や柳に長き命寺 運ぶ歩みのかざしなるらん
ようやく雨も上がりそうで、この辺りにある近江商人の町並みを見学することにした。カーナビで近江商人の町と入力すると五箇荘の町にマークが付く。思っていた豊臣秀次の八幡山城城下町とは違うような気がしたが、ともかくここに向けて車を走らせている。迷走の末に着いた所はうら寂しい町家が並び、なおかつ月曜日は全て休館であることから観光客は誰も歩いていない。町並みの片隅に車を停め、町筋を歩いてみると、大正時代に百貨店王として鳴らした三中井一族である中江家の邸宅のみが目に付いた程度であった。
旧中山道である国道8号線で北上し愛知川を越えた辺りで、左折して彦根道に入る。この道を北に進むと、やがて彦根市街となり車窓の前面には勇壮な彦根城が飛び込んで来る。徳川四天王の一人であった井伊直政の居城であり、江戸幕府開府に当たり西国大名の抑えとして重要な位置にあったと思える。この城の前を左手に向かうと琵琶湖湖岸を走るさざなみ街道となり、更に北へ進むとしばらくして長浜港に到着する。明日の渡船時間を確認した後に、少々迷ったが何とか今宵の泊りとなるBHグリーンホテル長浜に午後4時30分頃にチェックインした。部屋の窓からは長浜城が右手に見え、眼下には当時、家臣団の屋敷地であったであろう敷地に広い駐車場が整備されていた。BHにしては大きな風呂に入り、夕食はホテルの一階に併設されている食事処で生ビールと共に食べていた。
最初のコメントを投稿しよう!