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令和元年6月11日(火)晴 第三十番 宝厳寺、第三十三番華厳寺
翌朝、朝食までの間に湖畔を散策すると穏やかに晴れた空の下で、ヘラブナ釣りのじい様がのどかに竿を出している。しばらく様子を見ていると、沈む浮きに合わせて竿を立て25cmほどのヘラブナを釣り上げている。引き上げたスカリを覗き見すると10枚ほどのヘラブナが網の中ではねていた。この地方独特のフナ鮨でも作るのかと思いながらBHへ戻った。朝食のバイキングを食べ終え、BHを8時15分に出る。渡船場の駐車場には他に車が無かったが、やがて10台ほどの車が入り、最後に団体客のバスが入って来た。
午前9時出船、客席の最前列に座り窓から鏡面の様に鎮まる琵琶湖を眺めている。進み行く船の後方には雄大な伊吹山が聳え立ち、前方には湖面から盛り上がる様に比良の層巒 が横たわっている。船内には琵琶湖の成り立ちを説明するアナウンス流れている。興味を魅かれたのは、近つ海と言われた近江の琵琶湖と遠江となる浜名湖の由縁、十万年以上の寿命とされる古代湖にはバイカル湖やカスピ海などと共に400万年を越える琵琶湖があること、そして旧制四高の遭難事故であった。ただ、この遭難事故の説明の後に流された音楽は、琵琶湖哀歌でなく琵琶湖周航の歌であった。何か違和感を覚えたが、この歌の第四番に竹生島が描かれていることを思えば理解が出来る。やがて湖上に浮かぶ竹生島の島影が大きくなり、寺の伽藍をかなりな高さに見上げるほどになると、間もなく島に接岸する。そこで上陸してまず目に付いたのが、琵琶湖周航の歌の歌碑であった。
瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの竹生島
仏の御手に 抱かれて 眠れ乙女子 やすらけく
この歌詞もまた難解な言葉があり、日本国土には産出しない瑠璃や淡水には生息しない珊瑚が描かれている。ネット(三文楽士の音楽室)で調べると、瑠璃とは大正15年発行の琵琶湖協会ガイドブックには「湖波漫々猶ほ玻璃盤に一靑螺を置くが如し」と記されており、琵琶湖湖面の色を現す表現として一般化していたと考えられる。また珊瑚の宮とは竹生島の神社、仏閣を竜宮城に見立てた形容ではないかと思え、明治33年の幼年唱歌「うらしまたろ」の第四番に原形が見られる。
「みればおどろく からもんや さんごのはしら しゃこのやね
しんじゅやるりで かざりたて よるもかがやく おくごてん」
すなわち、瑠璃のように青い湖面に浮かぶ竹生島と珊瑚のように色鮮やかな寺社の形容と、ストレートに理解すれば良いのであろう。
岸壁から数軒の土産物店の前を通り過ぎると、直ぐに石段が待っている。それも一段に相当な高さがあり、中央に据えられた手摺りに頼らなければ体を持ち上げられない。要は琵琶湖の湖面から突き出した島の懸崖を一直線に登っている感じで、この第三十番宝厳寺の本尊である弁財天を祀る本堂に至った時には大汗を掻いていた。相模の江の島、安芸の宮島と並び日本三弁財天の霊地であり、音楽・弁才・財福・知恵に徳があるとされるこの天女に霊験を祈っていた。なお寺の納経所はここにあったが、豊臣秀頼により豊国廟から移築された観音堂は少し下った所にある。現在改修工事が行われており、無粋な囲いに覆われた回廊の途中に参拝所が設けられていた。
島での滞在時間は1時間であったが十分に余裕を残して島を離れ、再び長浜港へ戻っている。湖面より浮き立つ長浜城を見ていると、信長よりこの城の統治を任され木下藤吉郎から羽柴秀吉と名を改めた新進気鋭の武将の姿を彷彿とさせられた。
長浜港より、いよいよ結願寺となる美濃谷汲の華厳寺を目指すことになる。北陸道の長浜ICに入り米原Jctで名神道へ進むと、ここも工事中であった。長い車列の渋滞が続くが止まるまでには至らず、何とか関ケ原ICで高速を下りることになる。一般道を走ると目に付くのが古戦場の立札であり、天下分け目とされる東軍徳川家康と西軍石田三成との間に繰り広げられた関ヶ原の戦いの跡である。古代へ遡ると最大の内乱となった壬申の乱の折、東海・東山道の諸国の兵を招集した天智天皇の皇弟である大海人皇子が、近江朝廷である天智天皇の太子となる大友皇子の軍に、ここで勝利した。後に、ここには不破の関が置かれ、関ケ原の地名はこれに由来する。この道路を少し走ると、桃配山の立札が目に入った。東軍を率いる家康が関ケ原に着いて最初に陣を設けた地であり、その旗印である厭離穢土・欣求浄土の御旗が翻った時、両軍の士卒にどれほど心の高揚を覚えさせたかは計り知れない。ただ、開戦後に家康は、硝煙により戦況が掴めずとして、この陣地を引き払い平地にまで陣を移している。そこは、西軍を率いた石田三成の笹尾山陣場より600mほどしか離れていなかった。その後、小早川秀秋の寝返りにより東軍がこの戦いを制することになるが、江戸幕府265年の基となった戦場である。
道路は不破郡垂井町から揖斐郡池田町。揖斐川町を過ぎると山道になり、細い道路が山へと続いている。ここが谷汲へ至る山中かと思いきや、さにあらず峠を越すと平地となる。この道が県道40号線に交わる交差点に至った所で、やっと向こう側にコンクリート造りの華厳寺総門が見られた。この総門を潜ると、道路の両側には桜並木が続き土産物店や飲食店、旅館などが並んでいる。駐車場を探しながら進んで行くと、大きな駐車場があったが寺へはかなりな距離があり、更に先へと進んでいる。とうとう寺の仁王門まで行き付き、どうしようかと迷っていると、門の左手から車が出て来るのを見掛けた。そこで、その道へ入ると空き地があり、10数台停車している車を見て、その脇に停めることが出来た。寺の参道は直ぐ目の前であり、人気の少ない参道に踏み込んだ。参道の両脇には古杉が亭々と居並び、両側の20mほど置きに立てられた大きな幟には、南無観世音菩薩と書かれた旗が揺れている。深閑とした風情を感じさせる境内は、西国観音霊場の結願寺としての風格さえも漂わせていた。山中の曇り空の下に石段を登っていると、体に汗が滲みだして来る。特に本堂へと至る最後の石段はかなり厳しく、手摺りで体を持ち上げながら登ると、ようやく西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺と彫られた石柱が見えて来る。気が付けば10年の星霜が流れ去ってしまったが、あの雨の中で那智勝浦から自転車を走らせ那智川に沿った急坂を登り、大門坂からは歩いてたどり着いた第一番札所青岸渡寺の光景を思い出す。古の巡礼者はかの地から、紀伊、河内、奈良、山城、西近江、京都、丹波、摂津、播磨、丹後、若狭、東近江の国々を辿り、ここまで歩き通すことになる。現代人からすると正に想像を超えた歩きであり、その結末にここの本尊である十一面観音に相見えた時、何を思うのか。それぞれの祈願をすることに違いはあれ、過酷な巡礼旅に変わりが無く満願成就として心の琴線に触れるに違いない。そこで、感動を胸に納め、故郷への道に戻って行ったのであろう。私も本堂へ入り十一面観音に手を合わせる。それは10年の歳月の果てにたどり着いた結願であり、ここまでの祈願をぶつけていた。本堂脇の納経所で御朱印を貰うことになるが、ここでは三カ所の御堂になっていた。それは本堂となる大悲殿と満願堂、笈摺堂である。それぞれ現世、過去世、未来世を現すとされ、ここのご詠歌にも三種がある。
世を照らす 仏のしるし ありければ
まだともしびも 消えぬなりけり (現在)
万世の 願いをここに 納めおく
水は苔より 出る谷汲 (過去)
今までは 親と頼みし 笈摺を
脱ぎ納むる 美濃の谷汲 (未来)
ここで納札を入れる箱が見当たらず納経所で聞くと、本堂を出て左手の石段を登った所の満願堂にあると言う。そこで本堂裏手にあった笈摺堂を参拝し、一旦敷地に出ると石段があった。三十三段の石段を登ると小さな堂宇があり、両脇の石灯篭には満願の文字が彫られている。庇の元には見慣れた納札を入れる箱が据えられ、ここで結願の思いを心に語っていた。
春ともなれば桜並木が満開となり、さぞかし花見には多くの見物客が訪れるのであろうと思いながら、今日は閑散とした門前の蕎麦屋に入る。往時の巡礼者も精進落しに、そのようにしたのであろう鱒の甘露煮が乗った満願蕎麦を食べている。蒸し暑い中に汁まで啜ると、額から汗がほとばしり扇風機の風もあまり役には立たないほどであった。
ここからの帰りは東海北陸道の関ICに向かい、車の少ない東海北陸道を快調に走り、途中の蛭ケ野高原SAで休憩しただけで自宅へと向かっていた。
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