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第4章 第七区礼拝堂の夜(1)
タン、タン、タン、と小気味良い音を立てて足が跳ねる。輪を描きながら宙を舞う。その雷鼓の両足の動きが、突然、僅かながら乱れた。雷鼓の足が、逆立ちになった炎鼓の足の裏に着地し損ね、滑り落ちる。
「あっ……!」
雷鼓の体は豪快に地面に叩きつけられた。
「いったぁ……」
「おいおい、雷鼓。大丈夫か?」
炎鼓が雷鼓の手を取って引っ張り起こした。
「このところ失敗続きじゃん。何やってんだよ。もっと集中しろよ」
「……分かってるよ」
「本当かよ。もっと真面目にやってくれよ」
「……ごめん」
今日は、あの門前市から七日目。野晒との約束の日だった。この日が近づくにつれ、雷鼓の心は千々に乱れて大道芸の練習ばかりでなく、日常の全てにおいて集中力を維持するのが難しくなってきていた。いつの間にかぼんやりと虚空を眺めている自分に気がつくことも多い。とにかく観竜宮の家族達と顔を合わせるのが辛かった。特に白雨の顔を真っ直ぐに見ることができない。
自分は野晒に白雨を売ってしまったのだ、と思う。慈鳥の情報と引き換えだったとはいえ、あの時、野晒の問いに頷いてしまったのは、自分が心の中で白雨を疎ましく思っていたからではないか……そんな風に思えてならない。
「どうしたんだよ、雷鼓。最近おかしいぞ。何かあったのか?」
炎鼓が苛立ち半分、心配半分といった様子で雷鼓の顔を覗き込む。炎鼓も雷鼓の異変にはとっくに気がついている。そして、おそらくは観竜宮の家族達も。
「なんでもないよ……」
雷鼓は炎鼓の朱色の瞳から目を背けた。
「なんでもなくないだろう? なぁ?」
「なんでもないってば」
雷鼓の腕を掴もうとする炎鼓の手を、雷鼓は「やめてよ」と言いながら振り払う。
手を振り払われた炎鼓もムッとしたようで、今度は両手で雷鼓の肩をがしりと掴んだ。
「こっち見ろよ、雷鼓」
「やだ……もういいから。放っておいてよ」
「よくないだろ。見ろよ」
炎鼓に無理矢理体の向きを変えられ、雷鼓はしぶしぶと炎鼓に顔を向ける。
次の瞬間、視界が暗くなった。炎鼓の顔が自分の顔に被さっているのだと気がついた時には、唇に柔らかい体温を感じていた。炎鼓の舌が雷鼓の唇を割り、侵入してくる。雷鼓は驚いてビクリと体を震わせた。炎鼓の舌が唇の裏側がざらりと撫でる。それは雷鼓の中身の全てを暴き出すかのように口の中をゆるゆると生温かく蠢いていた。
「……ッ、いやだ!」
気がついた時には、雷鼓は炎鼓の体を思い切り突き飛ばしていた。掌で口元を覆う。
尻餅をついた炎鼓はきょとんとした顔で雷鼓を見上げてくる。まるで、雷鼓がなぜ突然怒ったのか、全然訳がわからないとでもいうように。
雷鼓は混乱し、荒い息を吐きながら、気がつくと炎鼓に背を向けて駆け出していた。そのまま観竜宮の門を走り出て、港の方へ向かう。
炎鼓は、走り去る雷鼓の背中を呆然として見送っていた。
追いかけようかとも思ったが、あの様子だとまた逃げられてしまいそうだ。雷鼓が少し落ち着いて戻ってくるのを待つか、と思い、腰を上げたちょうどその時、地面に転がった小さな赤い光を見つけた。
「……なんだこりゃ?」
炎鼓は赤い小石を指の先で摘まみ上げ、しげしげと眺めた。
いつの間にか雷鼓は港を抜けて、その先の荒野に立っていた。あの門前市の日、野晒と出会い、話した場所だ。
雷鼓は頬に滴る涙を拭ってその場に腰を下ろした。天空に向かって並び立つ白茶けた柱と、その向こうでだぷんだぷんと揺れ続ける渡悲海の赤黒い海面を、ただ見るともなしに眺める。
さっきの炎鼓の行動の意味を考えようとしたが、口元にまだ残る熱さの余韻が思考の邪魔をする。あれが不快だったかと言えば決してそうではなかった。むしろ、ある種の言い知れない心地よさを感じていたのも事実だ。だからこそ恐ろしかった。
それは、生まれる前から常に共にあった炎鼓との関係が急速に何か得体の知れないものに変化しつつあるという恐怖と戸惑いだった。
これもやはり白雨がやってきたからではないか。
どうしても思考はそこに行き着いてしまう。
だが、思い起こせば、今まで共に日常を過ごしてきた白雨は、何を考えているのか掴めないところはあるものの、大人しく、働き者で、観竜宮の者達の害になるような事は実際何ひとつしていない。雷鼓が勝手に白雨を意識して、身の回りの変化を白雨に結びつけようとしているだけなのだ。
そして、自分はそんな白雨を警邏隊に……。
雷鼓は胸の内の悲しみを押さえつけるように自らの膝を両腕でぎゅっと抱え、顔を突っ伏す。目尻からは後から後から止め処なく涙が溢れ出てくる。
慈鳥だったら今の自分をなんと言うだろうか? 暗い闇に包まれたようなこの心に一筋の光を投げかけてくれるだろうか? 慈鳥の語る言葉は難しくて、正直、当時五歳だった頃の自分には全てをはっきり理解できていたとは言い難い。けれど、博識で穏やかな慈鳥が雷鼓は好きだった。会えるものならば今すぐに会いたいと強く願っていた。
「おやまぁ、どうしたんだい?」
不意に声をかけられて雷鼓は泣き濡れた顔を上げる。
野菜かごを背負った常盤が立っていた。
「これから観竜宮の方へ野菜を届けに行こうと思ってねぇ」
常磐は、いつもと変わらずにこにことした笑顔を雷鼓に向けてくる。
雷鼓は慌てて袖で自分の顔を拭い、なんと言い訳をすればいいか、思考を巡らせていた。
しかし、雷鼓の唇が動くよりも前に、常磐が表情一つ変えずに言った。
「市の日ね、警邏隊の人とここでお話をしていたでしょう?」
雷鼓の背筋が凍り付いた。見られていたのだ、常磐に……。唐突な驚きと恐ろしさで手足に震えが上ってくる。
「常盤さん、私……」
こうなったら全てを打ち明けてしまおうか、雷鼓は一瞬、そんな気持ちに駆られた。
しかし、常磐は、ふと真剣な顔になり、雷鼓の言葉を遮った。
「……自分の魂の片割れを追い求めて止まない人が時たまいるからねぇ。でもきっとそれは大昔には人間が誰でも持っていた感情で、誰かが誰かを求めるという原始的で強いちからなんだよねぇ……誰にも止められない」
唐突な脈絡の無い常磐の言葉に雷鼓はぽかんとした。
「ああそうだ。雷鼓ちゃん、これをあげようね」
常磐は懐から短刀を取り出して雷鼓に手渡した。鞘には竜神の姿が彫られている。
「なぁに、これ?」
もはや涙もすっかり引っ込んでしまった雷鼓は興味深げに手中の小刀をじっと見つめた。
「竜神の牙で作られた刀さ。まぁ伝説だけどねぇ。私も観竜宮出身だからね。寺を出るときに蔵からこっそり持ち出したのさ」
「え、常盤さんも観竜宮の……?」
「天蔵さんが子供の時はね、私は観竜宮の住職をやっていたんだよ」
「えっ、そうなんだ……全然知らなかった……」
雷鼓にとっては意外な言葉だった。だが、常磐が観竜宮の者達に何かと目をかけて親しくしている理由がやっと腑に落ちた気がした。
「この刀はね……客神も殺せると言い伝えられているんだよ」
そう言って短刀を見つめる常磐の瞳に、一瞬、冷たい輝きが通り過ぎる。まるで鋭利な刃物のように。
「さあて、じゃあ私は行こうかねぇ。そうそう……雷鼓ちゃんがあの人と話していたことはナイショにしておくからね。安心してちょうだい」
にこにことした笑みが常磐の顔に戻る。
常磐は背中の野菜かごを揺すり上げて雷鼓に背を向けると、何事もなかったかのように、老人特有のゆったりした足取りで観竜宮への道を歩き去って行く。
雷鼓は頭の中の混乱を整理しきれないまま、常磐の後ろ姿を見送った。
常磐は一体何を言いたかったのだろうか? そして、なぜこの刀を雷鼓に渡したのか?
考えれば考えるほど分からない。
雷鼓はとりあえず短刀を腰の帯に差した。
そうして頭上を見上げる。琥珀色の夕闇はもう早々と星舎利の地に落ちてきていた。
白々と淡い輝きを放って夕闇の天空を横切る月舎利の地。月舎利を抱き込むように弧を描いて垂れ下がる柱の列。ざわざわと揺れる人間の卵達……。
月舎利の大地が身じろぎをする。右へ、左へ、捻れる。振り落とされる卵たち……次々と落下する。
高速で大気を引き裂きこちらに向かってくる卵は、今宵も星舎利には落下しないだろう。どぷん、どぷん、どぷん……と鈍い波音を立てて全て渡悲海に飲み込まれていく。
そんな中で雷鼓の目は空中で身をくねらす一本の紐のようなものを視界に捉えた。玉虫色の輝きが夕闇の中で翻る。飛行蛇だった。ついに雷鼓を迎えに来たのだ。
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