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第4章 第七区礼拝堂の夜(2)
高速で上昇する飛行蛇に乗った雷鼓が月舎利の港に到着したときには、辺りはすっかりと深い夜闇に覆われていた。
観竜宮ではもう夕食の時刻だ。帰らない雷鼓のことを今頃皆して心配しているだろうと思うと心が痛む。
しかし、ここまで来てしまったからにはもう戻るわけにはいかない、と思い直す。何としても慈鳥の行方を突き止め、再会するのだ。雷鼓は改めてそう心に誓った。
飛行蛇の背中から降りた雷鼓は足早に第七区の出入り口に向かう。
八年間閉鎖されていたはずの出入り口は開いていた。野晒が雷鼓のために予め開かせておいたのかもしれない。
雷鼓は久々に第七区に足を踏み入れる。糸の残骸が放つ淡い光の中を一歩一歩進んでいく。何者かが闇の底で蠢き、呼吸をしている気配を感じた。第七区にひっそりを住まう住人が、侵入者の姿を物陰から伺っているのかもしれない、と雷鼓は思った。
野晒との約束の場所は礼拝堂だ。しかし、その前に雷鼓は果汁菓の屋台跡に立ち寄った。空木が糸吐き病を発症して倒れた場所である。朽ちた屋台の影を覗き込む。空木の遺体は無かった。警邏隊に連れて行かれてしまったのだろうか? もし生きていれば……と雷鼓は思う。
――無事に療養施設等に入って適切な治療を受けられていればよいのだけど……。
そんなことを願いながら、雷鼓はその場に背を向けて礼拝堂に向かった。
廃墟になった礼拝堂の外観は思いの外荒れ果ててはいなかった。円筒の壁に囲まれた第七区の中に建ち、雨風の影響を受けないからだろう。ただ、真っ白で美しかった壁にはからからに干からびた糸の残骸がこびり付き、そこかしこの漆喰が剥げ落ちていることが、触ってみるとよく分かる。
「よく来たな、雷鼓」
不意に嗄れた声が背後から響いた。
雷鼓は弾かれたように振り返る。
「野晒……!」
雷鼓は、闇に溶け込むような漆黒の外套を羽織った野晒に歩み寄る。
「慈鳥はどこ!? 慈鳥に会わせて!」
野晒の胸元に掴みかからんばかりの勢いの雷鼓に、野晒は口元に指を当てて声を落とすよう、無言のうちに伝える。
「焦るな。慈鳥には必ず会わせる。……付いてこい」
そう囁くと、野晒は礼拝堂の入り口の扉の前に立ち、胸元から一本の鍵を取り出して鍵穴に差し込む。ギィッ、と軋む音がして扉が開いた。野晒はそのままさっさと中に入っていってしまう。
雷鼓も野晒の後に続いて礼拝堂に足を踏み入れた。
次の瞬間、ぽっと暖かい明かりが辺りを照らした。
野晒が壁に備え付けられた燭台の幾つかに火を点したのだ。揺れる炎に照らされて、目の前の壁には伝説の客神と竜神の戦いを描いた壁画が浮かび上がる。
野晒は、雷鼓の方を振り向きもせず、なぜか絵をじっと眺めていた。
雷鼓も絵を見上げる。簡易な線と五色の絵の具で描かれたその宗教画は決して名画というわけではないが、何か人を惹き付けて離れさせなくするような不思議な魔力が確かにあるように雷鼓には感じられた。
雷鼓はしばしの間、慈鳥の事も忘れて、野晒と並んで壁画に魅入られたかのように佇んでいた。
「……例のものは持ってきたかね?」
ふと、絵を見ながら野晒はぽつりと言った。
唐突な言葉だったので、絵に夢中になっていた雷鼓は一瞬何のことかすぐに分からなかった。しかし、数秒考え、野晒のいう「例のもの」があの赤い石だということに思い至った。
「もちろん、ずっと持ってる……て、あれ?」
雷鼓は自分の着物の懐を探ったが、指はそこにあるはずのものの感触を捉えることができなかった。
「無いのか?」
青くなって慌て出す雷鼓を見て、野晒は感情の抑揚の無い声で訊いた。
雷鼓は泣きそうな顔で頷く。あの赤い石の正体が何なのかは知らない。けれど、野晒はあの石が慈鳥と出会うための鍵だと言っていた。あれを持っていなければ慈鳥には会わせてもらえないのかもしれない。
「まぁよい……あれが無いのであれば慈鳥に会うには少し時間はかかるかもしれないが……」
慈鳥はぼそりと言った。
「ねぇ、野晒……あの石は一体何? いつになったら慈鳥に会えるの?」
「……いずれ分かる」
野晒はそれだけ言うのみであくまで雷鼓の質問には答えようとしない。雷鼓は頭に血が上るのを感じた。いつまではぐらかされるのか。雷鼓がもう一度野晒に問いを投げかけようと口を開いた時、野晒が壁画の横の壁を手で押した。ギイッ、と音がして壁が開く。観竜宮の壁と同様、隠し戸になっているらしい。
「来たまえ」
野晒は雷鼓を振り返る。
雷鼓は躊躇った。
「ここに来なさい」
野晒はさっきよりも強い口調で命じる。青い瞳が雷鼓を射貫く。その途端、両足に抗えない力が加わったように、雷鼓はふらふらと歩き出していた。一歩ずつ野晒の元へ近づいていく。
「ああ、良い子だ……さぁ今夜は君はここに泊まるのだよ」
野晒が目を細め、笑みを浮かべる。揺れる灯火の光が野晒の顔の火傷跡を浮かび上がらせていた。野晒の頬も額も顎も、橙色の明かりの中で渡悲海の海面のように縮れ、波打っている。
気がつけば、雷鼓の目の前には、壁の向こうの暗闇が広がっていた。何も見えない。
トン……と背中を押された。軽い力だった。しかし、それだけで雷鼓は、何の抵抗もなく、前のめりに倒れるように闇に向かって自然に足を踏み込んでいた。自分の体が落下していくのを雷鼓はまるで他人事のように感じた。
それと同時に、野晒の青い瞳が雷鼓を見つめ続けているのも背中越しにはっきりと感じる。
――あの目……あの青……白雨の瞳と同じ……。
雷鼓の頭の中で、ふと、野晒と白雨の姿が重なり合ったが、その次の瞬間、雷鼓の意識は闇に溶けるようにぷつんと失われたのだった。
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