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第6章 卵(2)
――あたたかい……。
真っ直ぐに下方に垂れ下がった縄状のもの……それを握った雷鼓がまず感じたのはその温度の高さだった。
雷鼓が今、両手両足を使ってしがみついているのは、大人の親指程度の太さのへその緒である。
雷鼓が白雨に連れてこられたこの場所は、この世に産まれる前の人間の命が育つところ……雷鼓達がいつも星舎利から見上げる、月舎利の「裏側」であった。今居る位置は、ちょうど第七区に当たる。
群生するへその緒は雷鼓の背後の遙か彼方から、前方のそのまた遙か彼方にかけて、見渡す限り無数に整然と並んでおり、足下に目を向けると、一本一本のへその緒にはまるまるとして透き通った「人間の卵」が危うげにぶら下がっている。卵の内側には胎児が薄らと透けて見えるが、中には人間よりも魚に似たような奇妙な生物も詰め込まれているようだった。時折、胎児達がもぞもぞと蠢く様子も見て取れる。
白雨はというと、信じ難い事に、裸足の足を月舎利の白茶けた表面にぺったりとくっつけ、重力に逆らって逆さまの格好のまま、涼しげな表情ですたすたと歩いている。
白雨は時折、振り向いては雷鼓の方を見上げ――雷鼓から見れば、見下ろし――オイデオイデというように手で招く。
雷鼓はぶらんと垂れ下がったへその緒からへその緒へ、白雨を追って必死に飛び移った。
雷鼓がいくら大道芸人だからといって、この状態で移動するのは流石にきつく、だんだんと手足が痛くなってくる。しかも、月舎利の大地は時に激しく揺れるのだ。
「うわっ……!」
前後左右に揺すぶられて雷鼓は思わず声を上げた。
気がつけば、雷鼓がしがみついているへその緒が、振動を受けて今にも千切れそうなくらい細く引き延ばされている。
雷鼓は慌てて手を伸ばし、隣のへその緒を掴む。
その瞬間、ぶちっと嫌な音がした。今まで雷鼓がぶら下がっていた方が切れたのだ。
「わ、わ、わっ……!」
雷鼓は大慌てしながらも、なんとか全体重を隣のへその緒に預け、自分の体を支えた。
へその緒が千切れた卵は静かに落下していく。おそらく渡悲海に落下してそれで終わりだろう。もし雷鼓がぶら下がっていなかったら、あの卵のへその緒が切れることはなかったかもしれない……そう思うと罪悪感が胸の奥をちくちくと突き刺す。
顔を上げると逆さまの白雨と目があった。気がつけば白雨との距離はだいぶ離れてしまっている。白雨は相変わらず無表情だが、その瞳は雷鼓に「早く来い」と言っているかのようだった。
「……やっぱりムカつくなぁ、あの子」
雷鼓はぶつぶつ言いながらも、へその緒の間を移動する速度を速めた。白雨も林立するへその緒の合間を縫うようにして歩き出す。
白雨は一体どこへ雷鼓を連れていこうとしているのだろうか?
炎鼓のいる場所……糸吐き病罹患者の隔離施設は、当然、月舎利の内部の街のどこかにあるものだとばかり思っていたし、この裏側にそのような施設があるとはとても思えない。しかし、ここまで来てしまった以上、今はただ白雨の後を付いていく他はないだろう。
――白雨……あんたは一体何者なの?
今までに何度も抱いてきた疑問を、改めて雷鼓は胸の内で、白雨の後ろ姿に投げかける。
突然現れて炎鼓の命を救った、青い髪と青い瞳の子供。言葉を発することも無く、出自も、本当の名前も不明……。よくよく考えてみれば、天蔵を始めとして観竜宮の者達が何の疑いも持たずに、さも自然に白雨を家族として招き入れたのもおかしな事だ。雷鼓自身も、白雨の存在には反発を覚えていたとはいえ、白雨が観竜宮の一員でいることには今までほとんど疑問を感じていなかったのだ。
白雨の青い瞳には催眠能力があるのではないか、と雷鼓は疑った。それと同時に野晒の青い瞳も思い出す。礼拝堂で野晒に見つめられて、まるで操られるように体が動かなくなってしまったのだった。
さらに、白雨は先ほど確かに言った。自分は客神なのだと……。
雷鼓の頭には月舎利の礼拝堂に描かれた壁画が鮮やかに蘇る。
この世を災いから救うべく訪れる神……。
それが本当に白雨だと言うのだろうか? まさか……。
雷鼓は木々を渡る猿のように手足を淡々と前後に動かして移動しながらもあれこれと考えを巡らしていたが、気がつくと、いつの間にか白雨の歩みはぴたりと止まっていた。
白雨の前には、辺り一面に生えているはずのへその緒が無く、そこだけがぽっかりとした空白地帯になっている。空白地帯の地表は不気味な程に真っ白で広かった。そして、地面は空白地帯の中央に向かって僅かに盛り上がっているようでもあった。
「白雨……ここは何?」
白雨に追いついた雷鼓が訊いた。当然ながら白雨は答えない。返答する代わりに逆さまの白雨はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。地面に両手の掌を当てる。
「……!」
白雨の手がずぶりと地の中に沈み込むのを見て雷鼓はぎょっと目を剥いた。
みるみるうちに白雨の両腕が、肩が、地面に呑み込まれていく。白雨は鼻先を地面にぺたりと当てる。白雨の頭もずぶりと沈みこみ、消える。白雨の体は止まる事無く沈んでいき、最後ににょっきりと地から生えた足がばたばたと軽く動いたかと思うと、ついに爪先まで呑み込まれてしまった。
雷鼓はしばらくは白雨が消えた場所をあんぐりと口を開けて眺めていた。
白雨が消えた後の地表はゆるゆると微かに波打っている。
雷鼓はゴクリと息を呑むと自分もおそるおそる地面に掌を当てた。やはり温かい。そして、ぐにゃりと柔らかな感触が指先に伝わる。
……と、次の瞬間、地面から白い手が現れ雷鼓の腕をがっしりと掴んだ。
「えっ……何!?」
雷鼓は狼狽えるが、抵抗する間もなく強い力でぐいぐいと腕を引っ張られる。気がつけば、腕が、肩が、地面に沈み込んでいて、たちまち視界が真っ黒になった。ついに頭を呑み込まれたのだ。しばらくは泥の中にいるかのように体が自由にならず、やたらとじたばたともがいていた。しかし、体が足の爪先まで完全に沈み込んだ途端、突然スッと体が軽くなった。反動でどさりと勢いよくその場に転がる。どうやら地面の中には広い空洞があるようだった。体を起こすと目の前に白雨がいた。白雨はもう逆さまではなかった。雷鼓と同じ方向に足をつけ、頭を向けている。辺りは暗いが白雨の姿はなぜかはっきりとよく見えた。仄かだが明かりがあるようだった。
「私の腕引っ張ったの、白雨?」
白雨はコクリと頷く。雷鼓は白雨の力が意外に強かったことに驚いた、
「ここはどこ?」
白雨は振り返って指を指した。
雷鼓はヒュッと息を呑む。白雨の指が指し示す方向には数え切れない程の量の卵がごろごろと山をなして転がっていたのである。
「何……これ?」
月舎利の裏側に吊す前の卵の倉庫……あるいは培養槽のようなところなのだろうか?
雷鼓は目の前に転がった卵の傍に慎重に近寄る。
卵のひとつひとつは微かに光を帯びているようだ。さっきからぼんやりとした明かりの気配を感じていたのは、この卵達の発光のせいかもしれない。そして、ここにある卵は、月舎利の裏側にぶら下がっているものよりもだいぶ直径が大きいものが多いようにも感じられた。
雷鼓は透き通った卵の殻を通して中を覗き見る。その途端、背筋にぞっと寒気が走った。卵の中にいるのは胎児ではない。
手首、髪の毛、足、歯、眼球……そして蛇のようにうねる大腸、べちゃりと歪んだ肉の塊……内臓……。人間……それも、子供ではなく大人の体を構成するものがばらばらに分解された状態で詰め込まれている。
雷鼓が絶句して佇んでいると、白雨がその隣をすぅっと通り過ぎた。白雨は行く手に転がる卵を平然と軽く足でどけながら、積み重なった卵の山の中にズンズンと踏み込んでいく。
「白雨!」
呼びかけると白雨は振り返り、またオイデオイデをした。
――白雨に付いていくしかない……。
覚悟を決めて雷鼓も歩き出した。ごろごろと転がる卵に足をとられて何度も転びそうになる。卵の中にあるものは総じて人間が溶けかかったような奇怪な物体であった。
雷鼓が最初に見つけたもののように人体が幾つもの塊に分解されつつあるもの、ほぼ液体状になって僅かながらに人間の痕跡としての固形物がぷかぷかと浮かんでいるもの、人間の形は残ってはいるが皮膚がぐずぐずに弛んで崩れたもの……。衣服を身に纏ったものもあるが、これも卵の中で溶けてしまうのか、大抵はボロボロに朽ちたようなただの布きれが体の表面に貼り付いたようになっている。
雷鼓はふと足を止めた。目の前に転がる卵に詰められたものが記憶の片隅にどうしても引っかかる。とはいえ、中にいるもの自体は、人の形を保ってはいるものの皮膚が溶けてところどころ骨が露出し、相貌はもはや分からない。雷鼓が既視感を覚えたのはその人が纏っている衣服の残骸だった。深緑色の布地に金の糸で草木模様の刺繍が織り込まれている……。おそらく月舎利第五区特有の民族衣装だ。
――そうだ……これは確か、薬売りの空木さんが着ていた……。
雷鼓はそこまで思い至ってからハッとした。
――もしかして、この卵に入っているのは糸吐き病の罹患者……? じゃあもしかして炎鼓も……。
頭から冷や水を浴びせられたかのように全身に不吉な悪寒が走った。動悸が速まる。
そうしているうちにも、白雨はどんどんと先に進んでいる。長い長い隧道のような空間……その中にひしめき合う卵……この狂った世界が無限に果てしなく続いていくように感じて目眩がした。けれども進まなくてはならない。この中のひとつに炎鼓が閉じ込められた卵がもしあるのなら、一刻も早く助け出さなければ……。おそらく糸吐き病に罹った者は卵の中に閉じ込められて体を溶かされてしまうのだろう。しかし、炎鼓が糸吐き病に冒されて警邏隊に連れ去られたのは昨夜の事だ。炎鼓はまだ溶かされていないはずである。
――今なら炎鼓を救い出せる……!
雷鼓の心は急いた。足は自然に駆け出そうとするが、ひしめき合う卵に阻まれて当然走ることはできない。
雷鼓は幾つもの卵を蹴り飛ばし、よろめきながらも白雨を追いかける。白雨の足は迷うことは無い。白雨は既に炎鼓の卵がある場所を知っているかのようだった。
「白雨……! 炎鼓はどこ!?」
白雨の背後まで追いついた雷鼓は叫んだ。
白雨が振り向き、唇を開く。
――エンコハアソコニイル。
そう言って白雨は頭上を見上げる。雷鼓は胸騒ぎを覚えながら白雨の視線の先を目で追った。
一個の卵がぼんやりと光を放ちながら闇の中に浮かんでいるのが視界に入る。卵の中に体を丸めて収まっているのは、確かに紛れもなく炎鼓の姿だった。
「炎鼓……!」
雷鼓が炎鼓の名を呼んだのとほぼ同時に白雨の体がふわりと浮き上がる。白雨はそのまま上昇し、炎鼓の卵に近づいていく。白雨は卵に向かって手を伸ばした。
バァ……ン!
耳をつんざく爆発音が鳴ったのはその直後である。
空中で白雨が身を反らした。ぐらりと体を傾け、一気に落下する。
「白雨!」
雷鼓は白雨が落ちた場所に必死で駆け寄る。
白雨はぐったりとして傍らの卵に寄りかかるようにして倒れていた。
「白雨、平気!?」
雷鼓が白雨の体を抱き起こすと掌がじっとりと濡れる感触があった。血だ。白雨の体から勢いよく血が溢れ出ているのだ。
「待っていたよ、慈鳥……」
聞き覚えのある嗄れた声が辺りに響いた。
雷鼓は顔を上げる。
卵の群生が放つ明かりに照らされて闇の中から姿を現したのは、銃器を片手に持った野晒だった。
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