第6章 卵(3)

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第6章 卵(3)

「野晒……」  雷鼓は白雨を抱えたまま呆然とした。  何が起きたのかをすぐに理解することができなかった。  しかし、肩から血を流して雷鼓の腕にもたれかかる白雨、そして、野晒の片手に握られた銃器から立ち上る硝煙は紛れもなく現実のものである。そして、野晒が口にした「慈鳥」という名前も、また、聞き間違いではないはずだった。 「どういう事……野晒? 慈鳥って……慈鳥はここにはいないよ……」  雷鼓は白雨の体を抱きしめながら必死で震える声を絞り出す。 「雷鼓……お前が抱えているそいつは紛れもなく慈鳥だ。姿形は違えどもかつてお前たちと共に観竜宮にいた慈鳥だよ」  冷たい視線を二人に向けながら、野晒は雷鼓に納得させるように繰り返す。 「そんな……」  雷鼓は白雨の顔を見る。 「白雨……あんた本当に……慈鳥なの?」  雷鼓が問うと、白雨は荒い息に胸を上下させ、額に汗を滲ませながらもこくりと確かに頷いた。  その時、雷鼓は天啓のように思い出した。白雨が作っていた様々な動植物の木彫りの人形……あれは古今東西の豊富な知識を持つ慈鳥だからこそ作れたものだったのではないか、と……。 「慈鳥……」  雷鼓は、思わず腕の中の白雨に呼びかけた。しかし、未だ信じがたいという気持ちは拭いきれない。白雨と慈鳥……頭の中でこの二人を結びつけるには、雷鼓の混乱と衝撃はあまりにも大き過ぎた。 「私は約束は果たした。お前は慈鳥に会えたのだ。……信じられないか? まぁ、無理もないだろうがな……では、教えてやろう……八年前の祝祭の時の事故は、慈鳥と私で仕組んだことだということをな」  野晒は淡々とした口調で続ける。 「祭りの最中、目に付いた適当な人物にこの糸吐き病の種を植え付けたのは慈鳥だ」  そう語る野晒の指先にはあの赤い石が摘ままれていた。 「糸吐き病罹患者の収容された袋を射撃して、糸を暴走させたのは私だがな」  野晒はくく、と笑う。  雷鼓は、あの騒ぎの中、銃器を持った人間が群衆に紛れて駆け抜けていったのを目撃したことを思い出した。 「全ては私達が共に生きるための計画だった。私と慈鳥は互いに求め合っていた。まるで無理矢理二つに引き裂かれた魂が一つになることを望むように……」  野晒は雷鼓と白雨を見下ろすように立ち、話を続ける。 「それも生まれる前からな。まだ私達が卵として月舎利の裏側にぶら下がっていた時分……私と慈鳥は互いに隣り合った卵だったのだ。私と慈鳥は胎児で有りながら、透き通った卵の殻越しに互いに強く惹かれ合っていた。本来であれば、単為生殖の今の世界で二人の人間が愛し合い求め合う愛欲の情は無用なはず。それにも関わらず、だ。  月舎利から振り落とされたのは私が先だったと思う。慈鳥はそれを追いかけるように落下した。慈鳥は私と離れたくないために自ら落下したのだと今でも私は思っている。  しかし、気流の影響か、私たちは不幸にも同じ場所に落ちることはできなかった。  慈鳥は星舎利の観竜宮へ、そして、私は渡悲海へ……。私も大半の卵と同じようにそのまま渡悲海に呑み込まれて終わるはずだった。渡悲海の水に包まれた時……あの時の全身が焼け付くような激しい痛みを今でもまざまざと思い出す。しかし、何の因果か、卵の殻が渡悲海の灼熱に溶かされても私自身は死にきれずに、全身に大火傷を負った状態で星舎利の陸に打ち上げられ、荒れ地に住む常盤(ときわ)に拾われた。  以来、常磐の元で隠れるようにひっそりと暮らしていた。私は自分の醜い姿を恥じて観竜宮の者とは極力交わらないように過ごしていたのだ。  しかし、ある日、偶然にも私と慈鳥は出会ってしまった。  慈鳥も胎児の時の記憶を覚えていた。私達が卵の殻越しに寄り添い合っていた時のことを……。私達は互いに求め合う運命にあるという事を……。  それ以来、我々は人目を忍んで逢瀬を重ねるようになった」  野晒はそこまで喋ると、過ぎ去った過去を懐かしむように目を細めた。 「……だが、私たちの関係は突然途絶えた。月舎利からの使者が私を迎えに来たからだ。月舎利の者達の目的は「渡悲海に落ちても助かった子供」という貴重な研究材料を手に入れることだった。  私は半ば無理矢理、月舎利に連れ去られた。私達は引き離されてしまったのだ。その時はまるでこの世の終わりのような絶望を味わったものだ。  しかし、月舎利で私を待っていた運命はそう悪いものではなかった。  私は、自らの「貴重な肉体」を研究対象として月舎利の政府に提供する代わり、私を警邏隊に入隊させることを条件とした。その願いは叶えられた。わかるか? 僻地と呼ばれる星舎利……その片隅で全てから隠れるように生きてきた私が華々しく警邏隊の兵士になれたのだ。その時の嬉しさは何ものにも変えがたかった。それが故に時に酷たらしく肉体を傷つけられるような人体実験に晒されても耐え抜くことができた」  野晒はクツクツと喉を鳴らして笑う。 「……しかし、なおもやはり私の中の慈鳥に対する想いは変わらなかった。出来るならば月舎利で共に暮らしたいとずっと考えていた。そんな折に、第七区の祝祭で私は再び慈鳥に再会した。  私達は何度も顔を合わせる度に、共にありたいという気持ちの強さを互いに確かめ合った。そして、ついに祝祭と糸吐き病を利用することを考えついたのだ……」  野晒の話は雷鼓には信じがたかった。 「本当なの……?」  雷鼓は震える声で腕の中の白雨に訊いた。慈鳥はあの時に確かに言ったはずだ。自分も後から観竜宮に戻るから心配はするな、と……。あれは嘘だったのか。泣きながらあの言葉を信じて逃げ出した炎鼓と雷鼓の気持ちは一体何だったのか。  さらには、慈鳥と野晒は、自分たちが共に生きたいという……ただそれだけのために沢山の罪の無い人を巻き込み、犠牲にしたというのか。  違うと言ってほしかった。野晒の言うことは出鱈目だと認めてほしかった。  しかし、白雨は雷鼓を真っ直ぐに見上げながらゆっくりと頷く。 ――スマナイ。  白雨の唇がそう動いた。  雷鼓の体は芯から震えた。それは恐ろしさのためでもあり、同時に、やり切れない悲しさのためでもあった。 「慈鳥が観竜宮の者であることがばれないように姿を変える必要があった」  野晒の語りは続く。 「私は慈鳥に糸吐き病の種を飲ませたのだ。お前もここに来て分かっただろう。糸吐き病に罹患した人間は、己の吐いた糸を殻としてその中で肉体を溶かし、胎児として再生される。その過程で外から様々な操作を加えることは可能だ。だから、私は……慈鳥の姿がなるべく「もう一人の私」に近づくようにしたのだ」 「もう一人の……?」  雷鼓は野晒の言う意味が分からず、ただ呆然と聞き返す。 「……もし渡悲海に落ちず、火傷を負わずに済んだなら私はこのような姿だったのではないかと想定しながら……私は、溶けて再生されゆく慈鳥の肉体に私の姿を再現した。青い瞳……そして、私の髪は渡悲海の熱で焼き切れてしまったが、元は青い髪だったはずだ。そして、傷一つ無い、白くて美しい皮膚……。愛しき者に私の理想とした姿を反映させていく……私はその作業に没頭したよ」  野晒は恍惚とした眼差しを白雨に向けて語り続ける。雷鼓は背筋にぞっとしたものを感じた。礼拝堂の地下の部屋に置かれた巨大な鳥籠、そして、その床に転がった木彫りの人形が頭に浮かんだ。姿を変えられて再生させられた慈鳥はあの鳥籠で「飼われて」いたのではないか。愛した人を信じたが故にどこにも逃げられずに監禁され、ただ孤独に耐えながら、手慰みに木彫り人形を一心不乱に削り続ける白雨の後ろ姿が、雷鼓にはすぐそこに見えるような気がした。 「ただ、卵にあるうちに外部からの影響を与えすぎたせいか、慈鳥は生まれてから何年か経った後も一言も口がきけなかった。代わりに、慈鳥は珍しい飛行能力を手に入れていた。そのおかげで、私は貴重な研究対象のひとつとして、慈鳥の存在を人々に知らしめることができた。特に警邏隊上層部は喜び、私の出世まで約束してくれた。私は何を憚ることもなく、慈鳥とともに生きることができるようになったのだ。……ただ一つの誤算は、慈鳥がその飛行能力を使って私の元から逃げ出してしまったことだがな」  野晒は苦々しげにそう言った。  その間にも怪我を負った白雨の呼吸はだんだんと荒くなっていく。 「さぁ……雷鼓。私は全てを話した。慈鳥をこちらに渡せ。観竜宮よりも私を選んだのは慈鳥の意思なのだからな。そして、姿を変え、私の元にずっといたのだ。私から逃れることはできない」  一歩一歩、野晒が詰め寄ってくる。 「私は慈鳥を愛している。その愛は今も……これからも変わることはないだろう。しかし、慈鳥は違ったようだ……私の元から逃げ出し、未練は無いと言い切ったはずの観竜宮に戻ってしまうとはな……」  野晒の青い瞳が揺らいだ。野晒は銃器を持った方とは逆の手を雷鼓の方に差し出す。掌の上にはあの赤い石が載っていた。 「雷鼓……これは糸吐き病の種だ。自らの体温で温め続けると発芽して、持ち主に糸を吐かせるようになる。これを持てばやがてお前もここにある卵澾のような姿になるだろう……炎鼓のようにな。ふふ……安心しろ。見ての通り、糸吐き病といっても正確には病とは違う。吐いた糸が殻になって皆、卵の中でしばしの眠りにつくだけ……そして新しい命に再生されるのだ。そうやってこの世界の命は循環し続けている」  野晒は火傷で引き攣った口の端を持ち上げて笑う。しかし、目は笑ってはいなかった。 「雷鼓……私がなぜこの種をお前に渡したのか分かるか? 分からないようであれば最後に教えてやろう。お前を慈鳥を誘き出す餌にするためさ。しかし、まさかきょうだいの炎鼓が糸吐き病になるとは……。まぁよい。結果的にはここにこうして慈鳥を誘い出せたのだからな」  野晒の声を聞きながら、雷鼓の頭の中はすぅっと冷えていく。その一方で、腹の底からはどろどろと熱いものがせり上がってきたように感じられる。それは抑えがたい怒りの感情だった。  雷鼓は腕に抱いた慈鳥をそっと地に下ろし、立ち上がる。握りしめた拳に力が入り、腕が震えた。 「許さない……!」  雷鼓は野晒に掴みかかった。後先の事などは考えていなかった。  野晒はひらりと身を躱すと片手で軽々と雷鼓を突き飛ばす。  雷鼓は背後に転がっていた卵の上に倒れ込み、背中を強く打ち付けた。咳き込みながら地に倒れ伏し悶える。顔を上げると、卵の殻にはひびが入っていて、とろりと透明な液体が染みだしていた。やってしまった、と雷鼓は思った。この卵の中の人間はもう生まれ変われることもなく死んでしまうのかもしれない。 「残念だ、雷鼓……お前がもう少し従順なら、もう一度胎児から人生をやり直す機会があったというのに……。しかし、それも致し方ない、か……。むしろ、ここで終わり無い生命の輪廻を断ち切ってやるのも思いやりかもしれんな」  野晒は銃口を雷鼓に向けた。 「永遠の命というのは悪夢のようなものだ……皆、悪夢の中を彷徨い続けている……」  野晒は歌うように呟くと引き金を引いた。  バァ……ン!  銃声が響く。雷鼓は衝撃の中で奇妙な程に凪いだ静寂を感じていた。意識が遠のく。だが、痛みはなかった。  このまま肉体も精神も永遠の死の底に沈んでいくのだ、と雷鼓は思った。かつて産声も上げる事無く渡悲海に呑み込まれていった数知れない同胞のように……。  しかし、不思議な事に雷鼓の体を巡る脈動はいつまでも止まらなかった。  雷鼓はおそるおそる目を開ける。胸に載った温かな重みに視線を向けた。唇から血を垂らした白雨が、まるで人形のようにだらりと雷鼓の胸を枕にして横たわっている。目はカッと大きく見開かれたままだが、その青い瞳にはもう光は無い。  白雨は……いや、慈鳥は雷鼓を庇って銃弾を受け、死んだのだとその時に気がついた。  慈鳥。雷鼓はその名を呼ぼうとする。  しかし、その前に辺りの空間に獣の雄叫びのような絶叫が響き渡った。  野晒が崩れ落ちるようにその場に膝を突き、頭を抱えて狂ったように泣き叫んでいた。 「なぜだ、慈鳥……! 殺すつもりはなかった! なぜ……なぜ、お前は……! 私がこんなにも愛していたのに……! なぜ……!」  雷鼓は、白雨の姿をした慈鳥の亡骸を抱えながら言葉も無く呆然とその有様を眺めていた。  すると、ふと、既に息を止めたはずの亡骸が雷鼓の腕の中でもぞりと動いた気がした。  雷鼓は何気なく白雨の顔を見てぎょっとした。いつの間にか白雨の口からは大量の白い糸が溢れ出てもぞもぞと蠢いていたのだ。  糸は白雨の顔を覆い、体を呑み込むようにうねり、波打ち、のたうち、縦横に伸び、ざわざわとさざ波のような振動とともに静かに野晒の体に向かう。両手で顔を覆って泣き崩れている野晒は気がつかない。  糸の群れは野晒を取り囲む。そうして、幾百匹もの蛇のような塊が鎌首をもたげ、しばらく様子を伺うようにゆらゆらと揺れた後、それぞれは重なり合いながら野晒の首に絡みついた。 「グッ……! ゲェ……!」  突然首を絞められた野晒は、目を見開いて仰け反り、喉が潰れたかのようなうめき声を上げた。相当強い力で締め上げられているのか、みるみる顔が赤くなり、それがやがて青黒く変わっていく。両手で喉をかきむしるように爪を立てるが、当然のように首に食い込んだ糸はびくともしない。  しばらくもがき苦しんだ後、野晒の動きは、ある瞬間、ピタリと止まった。  野晒はふっと穏やかな表情で微笑む。それが最期だった。  糸に首を吊られた格好のまま、がくりと腕が下がり、呻き声が止む。  事切れた野晒の首からはするすると糸が解けていく。 「慈鳥……生きてるの?」  雷鼓は震える声で腕に抱えた白雨に話しかける。しかし、反応は無い。口から湧き出した糸だけが独立して生命と意思を持っているかのようだった。  やがて糸は雷鼓の目の前で寄せ集まり、植物が生長し樹木となるが如く真っ直ぐに屹立した。上へ上へ伸びていく。その先には宙に吊り上げられた炎鼓の卵がある。  糸の群れは今度は炎鼓の卵に絡みついていく。すると、糸の動きに反応するように炎鼓の卵も強い光を帯び始める。  雷鼓は不意に腕をぐいと引っ張られるような衝撃を感じる。白雨の亡骸が糸に引っ張り上げられているのだった。 「待って……!」  慌てて白雨の体に取りすがるが、糸が亡骸を絡め取る力は強く、敢えなく引き離されてしまう。  白雨の体は上昇する。自らの口からごぼごぼとあふれ出した糸に絡め取られ、引きずり上げられて……。やがて、炎鼓の卵を覆い尽くした糸の塊の中に白雨も呑み込まれていく。  塊の内側では琥珀色の光が絶え間なく明滅している。光もうねりも次第に激しくなるようだった。  雷鼓にはもう気が抜けたようにその不思議な光景を眺めることしかできないでいる。  そのままどれ程時間が経っただろう。  不意に糸の塊が割れた。  今までの強靱さが嘘のように、絡み合って融け合った糸の残骸が、卵の破片が、ボロボロと崩れ落ちていく。  崩壊した中から何かが現れる。  雷鼓は、自分の頭が狂ってしまい幻覚を見ているのかと一瞬疑った。  二枚の大きな翼が広がり、柔らかそうな紅の羽毛がそよぐ。  舞い散った羽の一枚が雷鼓の頬を柔らかく撫でた。  それは幻覚ではなかった。 「客神……」  雷鼓は生まれ出た巨大な鳥の姿を見て、一言そう呟いた。
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