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第7章 客神と竜神
それは人間とも鳥とも蜥蜴とも似ているようで似つかない生物だった。
全身が羽毛に覆われ、翼が有り、長い尾を地に引きずっているという点において、それは紛れもなく「鳥」である。しかし、異様なのは顔であった。口は前方に長く突き出しているが、鳥の嘴というよりも蜥蜴の鼻面に似て、半ば開かれた口には鋭い牙がびっしりと並んでいる。そして、二つの目は人のように正面に並び、憂いを湛えた眼差しで雷鼓を見つめていた。青い瞳だった。
初めて見るはずの不可解な生物であるのに、雷鼓はなぜかそれが伝説の客神であると確信していた。
「すまなかった、雷鼓……」
客神は声を発した。八年ぶりに聞く慈鳥の声だった。
「野晒が言ったことは概ね事実だ……お前達と暮らしていた白雨は、確かに慈鳥……私だった。そして、八年前の事故も私と野晒が共謀して起こしたことも真実だ」
「慈鳥……なんで……炎鼓はどうなったの?」
雷鼓は震える声で尋ねる。頭の中は混乱し、まともに物を考えることもできなかった。
「らいこ……らいこ……あたしはここだよ……」
再び、客神が声を発する。今度は炎鼓の声で。
雷鼓は目を丸くした。
「私は慈鳥でもあり、炎鼓でもある。……そして、客神でもある」
再び、客神は慈鳥の声で喋った。
「犯してはならない罪を犯し、多くの人の巻き込み、死に至らしめ、挙げ句にお前達を捨てて、野晒と生きることを選んだ私だ……決して許されることではないとは分かっている。しかし、そうまでして求めた野晒の愛情の形は私が思っていたものとは違っていた。姿形を変えられて生まれ変わり、礼拝堂の地下に監禁されているうちに、勝手なことに日々胸に積もるのは望郷の念だった。観竜宮に帰りたい。お前達に会いたいと何度思ったことか……。あの日、糸吐き病の発生を知らせる警報が鳴り響いた時……私は警邏隊の兵士が第七区に突入するために、封鎖されているはずの出入口が開かれることに気がついた。私は生まれ変わって初めて自ら鳥籠を出て、地下室から這いだし……飛行能力を使って開かれた門から勢いのままに外に飛び出したのだ。そして、お前達を追いかけた……」
客神の表情は読み取りづらいが、その目元は切なげに潤んでいる。
客神は野晒の遺体に近づき、身を寄せるように翼を広げた。
「私はあの鳥籠にいる間、野晒に頼んで様々な書物を入手することができた。それに加え、白雨として観竜宮に戻った後も、観竜宮の蔵の中の書物を調べ、ある仮説に到達した……単為生殖故にこの世界で失われたはずの愛欲の情は、客神を蘇らせるための鍵なのではないかと……。愛欲の情に身を焦がす者こそ、客神となり得る条件を備えているのではないか。それが私であり、野晒であり……炎鼓だった」
客神はそう言うと雷鼓を見上げた。青い瞳の中に、朱色の炎が見え隠れする。雷鼓はそこに炎鼓の面影を見た。
「私は確かに野晒を愛していた。そして、炎鼓も……お前を愛していた。だから、私と炎鼓が融け合うことでこうして客神が産まれたのだ」
客神の言葉で雷鼓は思い出した。炎鼓が雷鼓に口づけた時に感じた熱。息づかい。肩に触れた時の手の指のかたち。
「炎鼓……本当なの? 炎鼓は私を……」
雷鼓は客神に問うた。
「らいこ……らいこ……すきだよ……ずっと」
炎鼓の声が闇の空間に響く。それはまるで幼子に還ってしまったかのような舌足らずな喋り方だったが、その分、飾りのない真っ直ぐな炎鼓の想いが、雷鼓の胸の中に流れ込んでくる。
雷鼓の頬には涙が伝わった。客神は一方の翼で野晒の遺体を抱きながら、もう片方の翼の羽先で雷鼓の涙を拭う。
「雷鼓……お前に見せたいものがある。私たちが客神として目覚めた以上、使命を果たさなければならない。それは私が常々願っていたこと……星舎利、月舎利の区別無くこの世をひとつにするということに繋がっている。その前にお前にこの世界の「外側」を見せよう」
慈鳥の声が後に続く。
「さぁ雷鼓。客神の背中に乗れ」
鳥の形の客神は脚を折り曲げて身を低くする。雷鼓は慈鳥の声に促されるままにその背に跨がり、客神の柔らかな頸に腕を回した。
羽ばたきの音とともに風が起こり、体がふわりと浮き上がる。
気がつけば、光を放つ卵達の群れも、糸に絡まれて横たわる野晒の遺体も眼下にあった。
雷鼓はごくりと息をのんだ。
客神はもう一度大きく羽ばたく。
ぐらりと視界が傾いだ……と思った瞬間、体が吹き飛ばされそうな程の激しい衝撃を感じる。
琥珀色の空が見えた。雷鼓は、客神がこの隧道の壁を突き破り、外へ出たのだと知った。
いつも下側からしか見てこなかった月舎利を、雷鼓は生まれて初めて上から見た。
下方に長く垂れる二本の柱に挟まれ、上に三つの大きな突起物を生やした月舎利第七区が見える。
第七区だけでなく、第八区、第九区とそのまた隣の区も、そして、第六区、第五区とそのまた隣の区も、同じように連なり続いていく。いつも月舎利を覆っていたはずの靄は綺麗に消え去っていた。神は月舎利の上を真っ直ぐに飛んでいく。第三区、第二区、第一区……次第に柱の長さが短くなっていった。
そして、遙か下方には星舎利の地が見える。改めて見ると、弧を描く細い棒を何本も互い違いに組み合わせているような形に見える。
飛んでいくうちにやがて月舎利の形は、第七区とはかなり異なるものとなった。まるで不格好な三角形の板が重なりあって並んでいるような……。そして、さらにその先には巨大な塊があった。形は蜥蜴の頭によく似ていて、目に当たる部分には大きな空洞が有り、上顎と下顎には鋭い牙がびっしりと並んでいて……。
雷鼓はハッと気がついた。
――そうだ……これは動物の頭蓋骨にそっくりだ。
雷鼓の頭の中で何かがつながりつつあった。
――もしかして、あれを頭蓋骨だとすると……三角形の板の塊は首の骨……頸椎……そして、月舎利は背骨で、幾つも分かれている地区のひとつひとつは椎骨……。この世界は何かの動物の骨格に沿って成り立っていて……でも、だとしたら星舎利は……?
そこまで考えた時に、視界が再びガクリと揺らいだ。思わず目を閉じる。
次の瞬間、突然ビョウビョウと強い風が頬を打った。まるで急に別の場所に飛ばされたかのようだ。
おそるおそる目を開けると青く澄んだ色が視界いっぱいに広がっていた。夢で見た青い空だった。もしや、と思い、客神の柔らかな頸元にしがみつきながら下を見る。
鼻と口が大きく前に迫り出し、口元に鋭い牙が並び、ずんぐりとした胴体を前傾させて二本脚で歩く、獣……その背中には短い羽毛がさわさわと揺れている。
雷鼓が幾度となく夢で見た巨大な獣が、今まさに目の前にいたのだった。
「あれは竜神だ」
客神が……慈鳥の声が言った。
「大昔の人間達はあれを恐ろしい竜……恐竜と言っていたようだが」
「恐竜……」
雷鼓は息を呑んで、眼下に広がる大地をのしのしと踏みしめて歩く、蜥蜴とも鳥とも似ているような不思議な獣を眺めていた。
「お前も先ほど見たように、我々の世界はあの恐竜の骨格に沿って形作られている。月舎利は恐竜の脊椎……そして、星舎利は腹肋骨……ガストラリアだ」
客神は恐竜……竜神の頭上をゆっくりと旋回する。
雷鼓の脳内には、封じ込められたはずの記憶がじんわりと湧き出し始めていた。
濁った黒に浸食される青い空。
一面の炎に覆われる景色。
ひび割れるアスファルト。倒壊するビルヂング。
叫びながら五体を捻り裂かれる人々。
厄災を連れてくる竜の姿……。
「世界は既に滅び去っているのだ……竜に呑み込まれて……」
慈鳥の声は静かに語る。
そうだった、と雷鼓は思い出す。突然降り立った厄災を前にして、人間は為す術も無く滅びたのだ。一人残らず死に絶えたのだった。
しかし、だとすれば、この「自分」は一体何なのだろう?
竜神の骨格の世界で生きる人たちは?
観竜宮の天蔵、時告、夕虹、慈鳥、そして、雷鼓と炎鼓は?
雷鼓の中に眠っていたこの記憶が正しいとするならば、野晒や空木や常磐も、祝祭の賑わいも、糸吐き病の恐ろしさも、そして、月舎利からぶら下がる無数の卵達も、全て「無かったもの」になってしまう……。
「客神の体を得て、改めて確信した。我々は竜神の体内で終わり無い夢を見続けているに過ぎない。本当は皆、既にこの世の者では無い、死に絶えたはずの人々なのだ……お前も、そして、私達も含めて……」
慈鳥は続けた。
雷鼓は野晒の言葉を思い出す。
――永遠の命というのは悪夢のようなものだ……皆、悪夢の中を彷徨い続けている……。
野晒は確かにそう言っていた。
「客神の役割……それは人間達を終わり無い夢から覚まし、全てを終わらすことだ。しかし、それは同時に世界の再構築であり、始まりでもある。全ての命がひとつになって蘇るのだ。覚えているか? 私がかつてよく言っていたことを……。月舎利の人間、星舎利の人間……互いがもはや反目することも隔てられることもなく一つになる理想の世界……客神にはそれを実現させることができる」
次第に熱を帯びてくる慈鳥の言葉とともに、雷鼓の頭にはある光景がとめどなく流れ込んでくる。それは、客神によってもたらされるはずの世界の終末の風景だった。
今、雷鼓の目の前には、観竜宮の神木があった。青々と葉を茂らせる巨大な神木は、いつもと変わらず風に枝葉をそよがせている。
だが、突然大地が揺れた。ドォッ! と地底から突き上げるような衝撃だった。
地面がひび割れる。渡悲海の海面もうねるように波立っているのが分かった。天蔵達が声を上げて本堂から外に転がり出る姿が見える。しかし、天蔵達からは雷鼓の姿は見えていないようであった。
割れた大地からは神木の根が顔を出し、みるみるうちに伸びていく。根だけではない。上空の向かって広がっていた枝もぐんぐんと伸びて月舎利に向かっていくようだった。その様子は、糸吐き病罹患者の口から溢れ出て暴れ回る糸の怪物を連想させた。
根は伸びながら波打ち、全てを破壊する。本堂の建物も、境内に作られた小さな畑も……。そして、やがて動く壁のような大群となった神木の根は、天蔵、時告、夕虹、真金を飲み込み、怒濤の勢いで圧した。劈くような悲鳴が上がる。雷鼓は目も耳も塞いでしまいたかったが、この悍ましい光景も音も容赦なく雷鼓の頭の中に流れ込んでくるのだった。
さらに神木の根は伸び続ける。渡悲海をも覆い尽くすように暴れ回った。灼熱であるはずの海水は、のたうち回る根に貪欲に吸い上げられる。空中で騒ぎ立てる影虫達も、神木の枝によって一匹残らず海に叩き落とされた上で、渡悲海の水にどろどろと溶かされ、根の餌食にされた。
その一方、上方に伸び行く枝葉の先端は、今まさに月舎利に到着したところだった。本体である竜神が苦しんでいるためか、月舎利は今までに無い程に大きく激しく、捻れるように左右に揺れ続けている。人間の卵達はぽろぽろとこぼれ落ちるように次から次へと振り落とされていく。
枝は、まるで蛇のように月舎利の表面を這い、走り、忽ちのうちにぐるぐると周りに絡みついた。そして、月舎利の地区……脊椎のひとつひとつを猛然と締め上げ、凄まじい力でぐしゃりぐしゃりと潰していく。その中に詰め込まれていた人々の生活も、同じように敢えなく、跡形もなく破壊された。
文明が恐ろしい速さで破壊される過程が、ひとつひとつ、生々しく雷鼓の頭の中を目まぐるしく駆け回る。崩壊させられたものは、生物も、非生物も、何ら区別もなく神木の中に取り込まれていくのである。
雷鼓の両目からは後から後から涙が溢れ出た。茫然自失としながら世界の終末を眺める。
やがて神木はこの世界に存在する全ての命と文明を破壊し尽くした。だが、それでもなお成長を止めない。
枝も根も、どこまでも伸び続ける。そして、世界の「本体」である竜神の体をついに引き裂いた。
ゴオオオオッ……!
青い空の下、竜神は断末魔の咆吼を上げながら地に伏す。砂埃が舞った。
竜神の背中も腹も無残に引き裂かれていた。肉の無い体内に充満していた密色の大気が霞のように飛び散る。
神木は伸びる。竜神の横たわる地面に根を下ろし、枝葉は青い空に向かって広がり続け……そして、突如、その成長をぴたりと止めた。
静寂が戻った。
気がつけば、荒野に斃れた竜神の死骸……まるでその墓標でもあるかのように神木が屹立していた。
そこで幻は終わった。
雷鼓は気がついた。竜神の死骸の上に生えた神木の中で、まさに全ての命が……卵も、人も、獣も、草木も、月舎利も、星舎利も区別無く融け合って存在しているのだと。そして、それが客神となった慈鳥の言う新しい命の在り方、新しい世界の始まりなのだということに……。
「雷鼓……見たな。私がこれから創ろうとしている新しい世界の在り方を……。心配しなくてもよい。お前もあの神木の一部となって永遠に生き長らえるのだから……美しい世界で心地よい眠りを……永遠に……」
客神はそう語ると、両の翼を羽ばたかせ、竜神に向かって降下していく。
客神は今まさに世界を終わらせようとしている。雷鼓が見せられた幻の光景と同じ事が、これからあの竜神の中で繰り広げられようとしている……雷鼓は絶望的な気持ちの中でそう確信した。
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