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終章 終わりない夢
世界が激しく揺れていた。月舎利も、星舎利も。渡悲海も大きくうねりながら揺れている。
辺りは夜の闇に包まれていたが、観竜宮には未だ煌々と明かりが灯っていた。
天蔵、時告、夕虹、そして真金が、姿を消してしまった雷鼓と白雨の身を案じ、祈りのように百本の蝋燭に火を点しながら、二人の帰りをまんじりともせず待っていたのだ。
その蝋燭の火が大地の揺れと共にぶわりぶわりと次々に消えていく。
「何が起きた!?」
時告が立ち上がる。夕虹と真金も手を取り合い、青い顔をして互いに身を寄せ合った。
天井の梁からぱらぱらと埃や木くずが散り落ちる。
「とにかく外へ出ろ、お前たち。本堂も危ないかもしれん」
手に持った扇で燃え残る蝋燭の炎を急いで消しながら、天蔵が指示した。
四人は転がるように外に走り出た。
神木が枝葉をざわざわと揺すらせている。そして、神木に突き上げられるかのように、遙か上空で淡く光る月舎利も、ゆさり、ゆさり、と今までになく大きく揺れているのであった。
「客神が……現れたのか」
天蔵がぽつりと呟く。
しかし、混乱の中で、その言葉は誰にも届くことはなかった。
「ああ……とうとう……終わってしまうのかねぇ」
星舎利の港に佇んだ常磐は激しく鳴動する大地を踏みしめ、折れ曲がった腰を懸命に伸ばすようにして、夜空を仰いでいた。
「やはりあの子はもうこの世にはいないかもしれない……卵になって生まれ変わることもなく……。一度は渡悲海に落ちて助かった命……思うがままに生きさせてやりたいと思ったけれど、あの子を月舎利に渡したのが本当に良かったのかどうか……」
常磐の目尻からは静かに、止め処なく、涙が溢れ出ていた。頭上では影虫達の大群が右往左往として滅茶苦茶に乱れ飛んでいる。あの影虫が、この世に生まれることなく渡悲海に落ちて消えた胎児達の成れの果ての姿なのだと知る者は、もう常磐と天蔵の他にはいないだろう。
「私はあの子には逆らえなかった。あの子に言われるがままに、雷鼓ちゃんも、炎鼓ちゃんも月舎利に行かせてしまった……かわいそうなことをしたかもしれない。でも、雷鼓と炎鼓……あの二人なら何かを変えてくれるかもしれない……そんな気がしたんだよ。観竜宮の代々の住職に伝えられる客神伝説の結末……この世の終末を変えてくれるかもしれないと……。でも、それも私の勝手な……愚かな期待だったのかねぇ……」
常磐はよろめきながら一歩一歩、港の端へ……渡悲海の波打ち際に向かって歩いて行く。
「この世は既に滅び去ったもの……か。終わりを受け入れて、皆がひとつになるのも悪くないかもしれないねぇ……野晒」
常磐はそう言うと、渦を巻き、波を逆立てる海に向かって身を躍らせた。
月舎利の裏側に形作られた隧道……その空間にぎっしり詰め込まれた卵達も振動を受けて転がり、跳ね、互いにぶつかりあっている。殻にひびが出来、砕けて割れる卵もあった。空木の卵もそのひとつだ。幾度となく、隣り合う卵達とぶつかりあううちに、ひびは次第に大きくなり、やがて、中からどろりとした液体が溢れだした。そこへ他の卵が容赦なくぶつかってくる。バシャッ! という水音とともに卵の殻はついに弾け飛んだ。
ほとんど液状と言ってもよい程にどろどろに溶けた空木の肉体が放り出される。手足と頭の形が辛うじて残っているために、なんとか人間の残骸として認識できる程度の泥人形の如きモノだ。それはしばらくブルブルと痙攣すると、頭の部分にぽっかりと空虚な穴が開いた。
ギャアア……ギャアア……。
産声とも、断末魔ともとれるとような悲鳴を二つ発した後、それはがくりと動かなくなった。
ギャアア……ギャアア……ギャアアア……。
卵が割れる度に、声が上がった。大合唱となって隧道に響き渡る
そのすぐ近くでは、糸に巻き付かれたままの野晒の死体が目をカッと見開いたまま横たわっている。
生気を失った野晒の青い瞳は、いつか生まれ変わるはずだった人間達の命の最期の狂騒をただじっと静かに見つめていた。
ゴオオオオオオッ……。
竜神が苦しげに身を捩り、悲しげ鳴き声を上げている。先ほど、雷鼓が見た幻影と同じ風景だ。ただ違うのは、これがもはや現実であるということであった。
「さぁ……これで終わりだ。全てが終わり、ここから新しい命が始まる……」
雷鼓を背に乗せた客神は、死にかけている竜神を眼下に見下ろしながら恍惚とそう言った。
「慈鳥……本当にそう思っているの?」
雷鼓は客神にゆっくりと問う。
「……どういうことだ?」
「この世界は既に終わっている……夢幻のようなもの……本当にそう思っている?」
雷鼓は腰に吊り下げた短刀を引き抜きながら言う。
「私は観竜宮での暮らしが好きだった。お師匠様に育てられ、慈鳥や、時告、夕虹や真金と一緒にいるのが好きだった。いつも炎鼓が隣にいる生活が好きだった。慈鳥に月舎利のお祭りに連れて行ってもらうのも好きだった。いつか慈鳥が戻ってきて皆が一緒に暮らせるって信じてた。……あの暮らしが全部嘘だったと慈鳥は言うの? ううん、私達だけじゃない。星舎利にも、月舎利にも、たくさんの人たちが住んでいて、それぞれの生活を営んでいる……。それを全て終わらすの?」
「……終わりでは無い。始まりだ。新しい命の……」
「違う!!!」
雷鼓は叫び、力を込めて短刀を振り下ろした。常磐から渡された剣だ。刀は客神の背に深く突き刺さった。
「慈鳥……貴方は本当に勝手だね。八年前にあの事件を起こした時と同じ……自分の理想のためにこの世界を巻き込もうとするなんて……」
雷鼓は剣の柄を両手で掴むと、ググ……と切り下げるように動かした。客神の背から赤い血が溢れ出る。
「たとえ同じ命が虚しく繰り返される、閉じられた世界であっても……それは私達の大切なものであることに間違いはないよ。慈鳥、貴方の勝手にはさせない……返してよ。私の大切なものを返して……」
客神の体が裂かれていく。血しぶきが雷鼓の髪を、顔を、体を濡らした。
「やめろ……やめろ……やめろおおおおお!」
客神の中の慈鳥が絶叫する。
「炎鼓を返して!!!」
その瞬間、客神の傷から見える血まみれの肉の中に、雷鼓は炎鼓の朱色の瞳を見た。
「炎鼓……!」
「……らい……こ……」
炎鼓が応える。客神の肉が内側からベリッと引き剥がされる音がした。客神の背から血だらけの炎鼓の手が震えながら伸びてくる。
その手を雷鼓が掴んだ。
「帰ろう、炎鼓……観竜宮に」
「うん……いっしょに……かえ……る……」
炎鼓の手がぎゅっと握り返す。
次の瞬間、二人の手の間から目映い光が放たれた。
――炎鼓、覚えている? 私達が双子になる前のことを……。
――ああ、雷鼓……覚えているさ。前の世界であたし達は一人の人間だったね。
気がつけば、真っ白な光の中、二人の声だけが響いていた。
――そう……前の世界が滅びるときに二つに分けられてしまったけど……。
――あたし達は元はひとつの体……ひとつの魂……。だからあたしはこんなにも雷鼓が好きで好きで……求めてしまうんだ。
炎鼓の声に雷鼓が答え、雷鼓の言葉に炎鼓が応じる。
そこにはもはや肉体は無い。ただ二つの魂だけが寄り添い合って漂っている。
――私もだよ、炎鼓……。離れることなんてできないよ。
――離れる必要なんて無い……今度こそひとつになろう、雷鼓……。
――そんな事ができるの?
――できるさ。今なら……。ひとつになって、帰ろう。あたし達の帰るべき場所へ……。
――ああ、炎鼓……嬉しい。もうずっと一緒だよ……永遠に……。
二つの魂は光の中でだんだんと滲み合い、融け合い、混じり合う。そうして互いが互いに、全く区別がつかなくなっていくのだった。
やがて天地の鳴動は唐突に収まった。
身を寄せ合って互いに抱き合うように蹲っていた天蔵達四人は、おそるおそる顔を上げた。
蜜色の光が辺りに満ち、半ば倒壊した本堂の建物やひび割れた大地を白々と照らしている。朝がやってきたのだ。
天蔵は頭上を見上げる。月舎利の揺れも止まっているようだ。
渡悲海も海面にまだ多少の波はあるものの、先ほどのような荒れ狂う様からはほど遠い。しばらく経てば再びいつもの凪が戻るだろう。
「雷鼓……!?」
夕虹が声を上げた。
神木の根元に雷鼓が座り、もたれ掛かっていた。
「雷鼓……!」
四人は立ち上がり、駆け寄る。
「血だらけじゃないか! もしかして怪我をしているのか……? どこを……」
時告が血に染まった雷鼓の体を抱き上げた。
雷鼓は身じろぎをし、ゆっくりと瞼を開ける。
「らい……」
時告はその名を呼びかけたところで、思わず絶句した。しばらく戸惑うように眉根を寄せ、腕に抱いた相手の顔をじっと見つめる。
「……雷鼓……なの?」
夕虹も横からおそるおそる問う。
「いや……もしかして、炎鼓?」
真金が訊いた。
「お前は……一体……」
天蔵も当惑したように口を開く。
「一体、どちらだ……?」
問いかけられたその人物は、四人の顔を順々に見て、ふっと微笑んだ。
「何を言っているの……? あたしはあたしだよ」
右目は朱色、左目は翡翠色……炎鼓でも雷鼓でもあり、同時に炎鼓でも雷鼓でも無いその人は、清々しい笑顔ではっきりと言った。
「ただいま……!」
青く澄み渡った空。どこまでも果てしなく続く、何も無い灰色の荒野……そこには巨大で奇妙な一頭の獣が歩いている。
人はそれを竜神と呼ぶ。
肉を持たない。生き物ではない。ただその内側に世界を内包する存在……。
竜神の体内では、今日も人々が幻のような日々の暮らしを繰り返している。
獣のかたちをした神は歩き続ける。ただひたすら。
それがどこに向かっているのか。どこから来たのか……知る者は誰もいない。
ただ、竜神が通った後……そこには背中を引き裂かれた一羽の鳥の死骸が砂にまみれて転がり落ちている。
客神と呼ばれたその鳥は、やがて降り積もる砂に埋もれて、幾千年、幾万年の時をかけてゆっくりゆっくりと消え去っていくだろう。
後には、灰色の大地と、澄み渡る青い空だけが無限に広がっているのみである。
(了)
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