第1章 月舎利の祭り(2)

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第1章 月舎利の祭り(2)

「待てぇ……!」 「ドロボー……!」  二人は叫ぶが、掏摸(すり)の逃げ足は速く、忽ち雑踏の中に姿をくらましそうになる。  その時、横から犬のように走り込んできた別の人影があった。飛びかかられて、掏摸が横倒しに勢いよく倒れる。取り押さえた人物は掏摸の上に馬乗りになってその腕を捻り上げると、雷鼓が盗られた袋を力づくで取り上げた。 「大人しくしろ!」 一喝すると掏摸の両腕を後ろ手にして拘束して立ち上がらせ、こちらに歩いてくる。顔一面に爛れたような火傷の跡があった。まるで僧侶のように髪は一本も無く、年齢はよく分からない。唯一、確かなのはその人物が月舎利の警邏隊(けいらたい)の兵士であるということだった。真っ黒な制服の胸元に三日月の紋章が輝いていて、腰に軍刀を佩いているのがその証だ。警邏隊は月舎利の各地区に配備されている、主に街の治安を維持するための警察組織である。 「ほら。今日は人出が多い。悪い奴もうろついているからな。気をつけろ」  兵士はそう言って、ぽかんとしている雷鼓の手に袋を握らす。ガラガラに嗄れた老人のような声だった。 「炎鼓! 雷鼓! 大丈夫か?」  そこへ人混みを掻き分け、慈鳥が走ってきた。 「ああ……こいつらはお前のきょうだい弟子か」  火傷跡の兵士は振り向いて慈鳥に声をかける。 「野晒(のざれ)……ありがとう。世話になったな」  どうやら、野晒と呼ばれた兵士は慈鳥と知り合いらしかった。 「じゃあ俺はこいつを連れて行くからな」 「ああ、分かった。後でな」  火傷跡の兵士は片手を上げて慈鳥の言葉に応じながらも、もう片方の手で掏摸の腕をねじり上げながら乱暴に引き立てる。掏摸はうめき声を上げた。兵士の腕力は相当強いらしい。 「くそっ……こんな目にあわせやがって! 星舎利の奴らの金を盗ったってなんだっていうんだ。こいつらは所詮、俺たちとは違う……ガストラリアの奴らだ。落ちこぼれモンだ。あんた、月舎利の警邏隊だろ! 何だってこいつらの味方をする。くそっ! 今に見てろよ! ただじゃ済まさねぇからなぁ!」  掏摸は口の端から泡を飛ばして悪態をつき、反り返るように首をぐぎりと曲げながら慈鳥達の方をにらみ付けていた。  その様子が恐ろしくて、炎鼓も雷鼓も思わず慈鳥の後ろに隠れ、その着物の裾をぎゅっと握った。 「怖がることはない。悔し紛れに強いことを言っているだけだ。あの者はもう警邏隊に捉えられた……殺されはしまいが、もう当分は悪いことなどできない体にされるだろうよ」  そう言って微笑む慈鳥の瞳には、一瞬だけ凍てつくような残酷さが宿る。 「ねぇ……慈鳥。星舎利に住まう者は月舎利の人たちとはやはり違うものなの?」  雷鼓がおそるおそる慈鳥を見上げて尋ねる。 「あいつ、星舎利の人の金なら盗っても構わないって言ってた! なんか……ガス……なんとかの奴らだからって。オチコボレだって。どういうことだ?」  炎鼓も慈鳥に詰め寄るように質問する。 「まぁ落ち着けお前達。怖い思いをしたばかりだろうから私が菓子を買ってやろう。食べながら説明してやるから」  慈鳥は二人を宥めて、屋台で果汁菓(かじゅうか)を三つ買った。果汁菓は、簡易な使い捨ての容器に青く着色された砂糖水、そして四角く小さく切り刻まれた色とりどりの果物が詰め込まれた美しい菓子である。炎鼓も雷鼓もいつも月舎利の祭りに来る時はこの果汁菓を食べるのを楽しみにしていた。 「さぁて、何から話そうか……まずはこの世界がどのように形作られているか、から説明した方が良さそうだな」  道の端に腰を下ろし、先ほどの怯えた様子が嘘のように目を輝かせて果汁菓にパクつく双子の横、慈鳥は己も甘い砂糖水をこくりと飲み下しながら語り出す。  慈鳥は炎鼓と雷鼓が幼子だからといって、説明を端折ったり誤魔化したりなどは決してしない。大人と同じように二人に接する。それが、炎鼓と雷鼓が慈鳥を慕う理由のひとつだった。 「お前達も知っての通り、この世界……少なくとも私達が見ることができるこの世界は、月舎利と星舎利に分かれている。この世界の中心はこの月舎利……ということになっている。  一方、我々が住む星舎利は、月舎利から分離され、月舎利の遙か下方に横たわる、いわば僻地だ。その星舎利の土地の端には、誰かが植えたのか、または、元々自生していたものなのかは分からぬが、年月を経た古い古い木が生えている。いつ頃からか、その木は神木として崇められ、神木の下に建立された寺院は伝説の竜神を祀り、「観竜宮」と呼ばれるようになった。私や炎鼓、雷鼓、そして、住職であるお師匠様……天蔵様や他のきょうだい弟子……時告(ときつげ)夕虹(ゆうにじ)が暮らしているのがその観竜宮だ」 「ねぇ、慈鳥。なんで観竜宮は竜神を祀っているの? 伝説では悪い神様なんだろ?」  口元が砂糖水でべとべとになった炎鼓が真剣な表情で慈鳥に訊く。慈鳥はふっと頬を緩ませる。 「荒ぶる神も丁重に祀り、鎮めれば、我々に幸いをもたらす善神になる。観竜宮には願い事を祈念しにくる人が絶えないだろう? 参詣者は星舎利だけでなく月舎利からも訪れている。つまり、それだけ今の竜神は、客神と同じように皆から崇められているんだ」  「フゥーン」  炎鼓も雷鼓も理解しているのかしていないのか、目を丸くしてただ頷く。 「先程の掏摸が言っていたガストラリアというのは星舎利の異名だ。星舎利は棒のように細長く延びた土地で海の上に浮かんでいる。お前達もよく知っているだろうが、その海が渡悲海だ。一度触れれば何人であろうとも渡悲海の水に絡みつかれ、引きずりこまれ、助かる事は万に一つも無いと言われる」  炎鼓と雷鼓はこくこくと頭を揺らしてまた頷いた。二人とも渡悲海は毎日のように目にしている。赤黒くて、熱くて、ゆっくりとどろどろと流れる液体に充ちた渡悲海は、誰にとっても近づくことすら憚られる恐ろしい存在だ。 「渡悲海に囲まれて浮かぶ星舎利、又の名をガストラリア……そして、その遙か上空には月舎利がある。つまり、我々が今いるこの場所のことだ。炎鼓、雷鼓……お前達も星舎利から月舎利を見上げることはよくあるな? 星舎利から見ると、月舎利は上空を横切って、星舎利の土地と平行にどこまでも伸びる歪な橋のような形をして、なおかつ、幾つもの地区に分割されている。もちろん月舎利の両端にも終わりはあるとは思うが私達の目ではそれを見極めることはできない。第十区や第四区の先は常に白い靄に覆われているからな」  慈鳥がそう語ると同時に、三人の座る地面が不意にぐらりと大きく傾いた。器に入れた青い砂糖水がぱしゃりとこぼれ落ちる。炎鼓も雷鼓もびくっと体を震わすが、道を行く人々はまるで動じた様子はなく、よろめいたとしても軽くたたらを踏むくらいである。 「月舎利はよく揺れるのだ……このように」  慈鳥も涼しい顔で説明を続ける。 「月舎利は石のように堅い物質で形作られている。おまけに歪な円筒の形をしているから、その外側に人が住んだり建物を建てたりすることは難しい。その代わり、例えば、今、私達がいる第七区では、人が生活したり、今日のように祭りを楽しんだり、祈りを捧げたりする空間は月舎利の内部を刳り抜いて作られている。この場所が筒状の壁で覆われているのはそのためだ。常に煌々と明かりが放たれ、壁に反射して、昼も夜も区別がない。第七区以外の地区も基本的に同じような構造であろうが、こことは違い、月舎利の住人の居住区となっていると聞く。つまり、日常の生活の場だ。私達のような星舎利の者は第六区にも第八区にもその他の地区にも原則的に足を踏み入れることはできない。そして、理由は分からぬが、時折、月舎利の各地区はこうして動くのだ」  慈鳥の言葉とともに、地面も壁も、再び大きくぐらりぐらりと揺れた。炎鼓と雷鼓は慌てて果汁菓の砂糖水を溢れぬうちに飲み干す。 「私達が星舎利と月舎利を行き来するためには、第八区を向かいに臨む小さな「港」を使う。そこから唯一、月舎利と星舎利とを結ぶ直行便が出ている。ほら、今日も私達が乗ってきた「海月亀(くらげがめ)」のことだよ」  炎鼓も雷鼓も海月亀のことはよく知っている。甲羅の上に人を乗せて、空気中をぷかぷかと浮かびながら上下移動する動物だ。速度は遅いので時間はかかるが、甲羅はふかふかとして柔らかく、長時間乗っていてもお尻が痛くならない。 「月舎利の人間、星舎利の人間……一体、何が違うのか? あの掏摸の言う通り、我ら星舎利出身の人間は月舎利の住人に見下されなくてはならない存在なのか? 結論から言えばそうではないと私は思っている。星舎利の人間も、月舎利の人間も、元は生まれは同じだ。お前達……星舎利から月舎利を眺めているときに気がつきはしないか? 月舎利の表面に何かが産毛のようにびっしりと生い茂り、月舎利が揺れる度にざわざわと蠢いているのが……。それか、海月亀に乗って星舎利と月舎利とを往来する時、月舎利の下に無数の大きな桜桃(さくらんぼう)のようなものが垂れ下がっているのに気がついたこともあるかもしれない。  あれらの一つ一つは、実は人間の卵なのだよ。卵から伸びた細いへその緒が月舎利の表面に貼り付き、透明な卵の殻の内側で眠る胎児達が、重力に引っ張られるままにゆらゆらと吊り下げられているのだ。  やがて卵が熟して胎児が大きくなった頃に月舎利の中から「子取り」と呼ばれる役職の者達が飛んでくる。彼らは背中に翼が生えているので月舎利の裏側に来ても重力に従って落下せず、自在に動くことができる。そして、そろそろ孵化しそうな卵を選りすぐって収穫する。卵は月舎利のいずれかの地区に運ばれ、孵化すれば人間が生まれる。生まれた子供はそれぞれの地区の養護施設で育成されるのだ。  遙か昔は、「女」という陰の性と「男」という陽の性を持つ者がおり、両者が交わることで子供が生まれていたらしいがな……でもそれも過ぎ去った過去の話だ。今は、誰しも性別……男と女の違いというものは持たず、人と人とが番わなくても子は殖え、その育成は月舎利の行政によって一括管理されている。  しかし、そこから零れ落ちて育つ者も僅かながら存在する」  慈鳥はそこで言葉を区切って、炎鼓と雷鼓の顔を順繰りに眺めた。二人は黙って神妙に慈鳥の説明を聞いている。 「お前達も先ほどから感じているように月舎利はよく揺れる。この静かな揺れが月舎利の内部に及ぼす影響は微々たるものに過ぎないだろう。だが、その裏にひしめく卵達には確実に大きすぎる振動であることは間違いない。卵達は振り子のように激しく揺すぶられ、互いにぶつかり合う。その衝撃に耐えきれなかった卵は月舎利から振り落とされる。……全ての卵のうちの約一割以上は孵化する前に落下してしまうらしい。  落ちた卵の大半は下界の渡悲海に呑み込まれて二度とは戻ってこない。しかし、稀にその中の一部が星舎利に墜落する。……それが私達だ。私もお前たちも星舎利の観竜宮の敷地に落ち、天蔵様に拾われ、育てられた。つまり月舎利の者も星舎利の者も生まれには違いがないのだ。だが、月舎利に住む者達は我ら星舎利の住人を見下している……おかしな話だがな」  慈鳥はそう言って遠くを見るようにすっと目を細めた。  そうして三人が話しながら道端で果汁菓を食べていると、不意に街が何やら騒がしくなった。祭りの喧噪とは違う、何か得体の知れない不吉な予感を孕んだざわめきだ。 「だめだ、離れろ……!」  そんな声が群衆の中から聞こえた。
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