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第1章 月舎利の祭り(3)
慈鳥が器を置いて立ち上がった。ざわめきの波紋の源と思しき彷徨に向かって駆けていく。炎鼓と雷鼓も慌てて慈鳥の後を追う。
幾重にも人垣ができていた。しかし、その人達も恐怖に顔を歪めてじりじりと後退し、慌てて逃げ出していく人の姿さえ見受けられる。だから、慈鳥達が人を掻き分けて騒ぎの中心である「それ」に近づいていくことは然程難しくはなかった。
人垣の中心には一人の人物が蹲っているのが見えた。
その人はゲホゲホと激しく咳込んで両手の爪を立てて胸元を掻きむしりながら涙を流して身悶えている。口からはだらりと白いものが垂れ下がっていた。大量の糸のようだった。咳込む度に口からは唾液と血に濡れた糸がごぼごぼと溢れ出す。しかもその糸の一本一本はまるで長細いミミズのようにのたうちながら蠢いていた。
炎鼓も雷鼓も目を丸くして息を飲んだ。
「……あれは糸吐き病だな。月舎利の風土病だ。伝染病だから危険だ。私達もなるべく息をしないようにしてここから離れた方がよいだろう」
慈鳥は袖口で自分の口と鼻を覆いながら、炎鼓と雷鼓にもここから早く立ち去るように促す。炎鼓と雷鼓も慌てて両手で口を押さえて息を止めた。
その時だった。
「退け! 通せ!」
不意によく通る声が辺りに響いた。通報があったのか、駆けつけた警邏隊の兵士達だった。兵士は三人。そのうち一人は大きな袋を抱えていた。三人とも分厚い手袋を嵌めている。人々は道を開けた。
警邏隊の二人が、もがき苦しむその人の両手と両足をそれぞれ乱暴に掴み、持ち上げた。その間にもう一人が袋を広げる。糸吐き病の罹患者はたちまち袋に放り込まれ、詰め込まれた。兵士は、暴れ回る糸が飛び出さないように押さえ付けながら、手早く袋の口を縛り付ける。一番体が大きい兵士がそれを肩に抱え上げた。袋はバサバサと激しく動き、悲痛な呻き声と咳の音は途切れなく聞こえる。しかし、兵士達は眉一つ動かさずに、荷を抱えるように平然と袋を運搬していった。
「警邏隊が捕獲した……」
「治療施設に連れて行かれるのだろう……」
人々がひそひそと囁き合う。
ちょうどその直後、ドンッ! とただならぬ破裂音が辺りに響き渡った。音とともに罹患者が入った袋を担いでいた兵士が前のめりに倒れる。
「なんだ!?」
「撃たれたぞ!」
人々が再び騒ぎ出す。
雷鼓は、その時、身を低くしながら人の群れを縫って駆け去っていく人影を一瞬だけ見た。大きな布を頭から被っているので人相は分からない。しかし、その右手に銃器のようなものが握られているのははっきりと見て取れた。
倒れた兵士の周りにはじわじわと血だまりが広がっている。しかし、兵士はすぐに起き上がった。撃たれたのは兵士ではなかったのだ。大量の血は袋から滲み出していた。撃たれたのは袋……糸吐き病の罹患者だ。
周囲を取り巻く群衆の混乱はますます激しくなる。祝祭の賑わいはすっかり混迷の騒乱に取って変わられた。
撃たれた袋……その穴からは、血にまみれた糸がずるずると這い出してきていた。その悍ましさに炎鼓も雷鼓も思わず声を上げかけたが、その暇さえなく、罹患者を収めていた袋が突然ぶわりと膨張し、弾け飛んだ。
袋の拘束から自由になった糸は、幾百もの蛇の大群のように鎌首を持ち上げている。勢いよくうねり、跳ね回り、伸び、辺りに広がっていく。その中心には顔を真っ赤な血に染めて白目を剥きながらも口から大量の糸を吐き出し続ける人間の姿があった。撃たれたのはおそらく額だ。生きているはずがない。それなのに、その人は立ち上がり、ゆらゆらと揺れながら一歩一歩、群衆の方に近づいていく。まるで己の吐き出した糸に操られているかのように……。
好奇心からその場に集っていた者達も、皆、一様に悲鳴を上げて必死にその場から逃げ出した。しかし、糸は人々の動きが見えているのか、逃げ惑う人の後を追いかけるように速度を上げてするすると伸びていき、瞬く間にその体に絡みつく。捕らわれた人の絶叫がここかしこから響いた。首に絡みつかれた者は、しばらくは顔を真っ赤にしてもがき苦しんでいたが、やがてその顔の色は徐々に白くなっていき、がくりと倒れ込んで動かなくなる。足を取られて転んだ人に襲いかかり、口をこじ開け体内に無理矢理入ろうとしている糸もあった。
慈鳥も炎鼓と雷鼓を両脇に抱えて逃げ出した。その後ろをしゅるしゅると不気味な音を立てて糸が追ってくる。
「うっ……!」
慈鳥の左足にも糸が絡みついた。粘ついていて振り払おうにも振り払えそうにない。
その時、きらりと閃光が走った。慈鳥の足を押さえつけていた戒めが解ける。
「大丈夫か、慈鳥……!」
「野晒!」
先ほど掏摸を捕まえてくれた兵士が腰の軍刀を抜いて、糸を切ってくれたのだった。
「ここにいると危ない。一刻も早く外に出た方がいいぞ」
「しかし……」
慈鳥は第七区の出入り口の方を見た。月舎利の外側に繋がる出口には人が殺到して、とてもすぐには逃げ出せそうにない。
「こっちへ来い! その子達が外へ出られそうな場所がある!」
野晒が走り出し、慈鳥もすぐその後を追いかけた。
それは壁に穿たれた通気口だった。炎鼓と雷鼓の体の大きさや身体能力ならばよじ登って難なく通り抜けられそうである。しかし、大人には狭すぎる。
「炎鼓! 雷鼓! あそこから逃げろ!」
炎鼓と雷鼓を腕から下ろして、慈鳥が叫んだ。
「でも、慈鳥は……!」
「慈鳥を残して逃げるなんて出来ないよ!」
双子は涙を流しながら慈鳥の着物の裾に取りすがる。
「慈鳥が逃げることができる出口もあるから安心しろ。しかし、そこに辿り着くまでにお前達を抱えたままだと逃げ切れなくなる可能性がある。だからまずお前達はここから脱出して港に向かい、少しでも早く星舎利に帰りなさい」
野晒が諭すように二人に言う。
「慈鳥……」
「本当に後から来るね……?」
慈鳥はなおも不安げに見上げてくる二人の体を抱きしめた。
「ああ、必ず私も行くから。絶対に帰るから。お前達は、今は自分たちが安全な場所に行くことを考えろ。港に着いても私を待っていたりしてはいけないよ。目に付いた海月亀に飛び乗って二人で星舎利に帰るんだ。分かったか?」
炎鼓と雷鼓は泣き濡れた顔でしゃっくりを上げながらもその言葉に頷く。
「分かったならすぐに行け! 時間が無い!」
野晒が叫ぶ。
すぐ背後まで暴れ回る糸の怪物が迫ってきていた。
野晒が雷鼓を抱き上げ、頭上の通気口に向かって押し上げる。隣では、慈鳥が炎鼓の両脇に手を差し込み、同じように炎鼓を掲げ持った。
雷鼓は覚悟を決めて通気口に飛び込む。そのすぐ後ろに炎鼓も続く。暗い視界の先には月舎利の外側の世界……蜜色に輝く空が見えた。背後からは凄まじい絶叫が響いてくる。あの叫び声がどうか慈鳥のものでありませんように、と願いながら、二人は埃まみれの通路を必死で這い進んだ。
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