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第2章 青い髪の子(1)
そこは闇と静寂が支配する世界だった。物音ひとつしない薄暗闇……しかし、地面はところどころうっすらと光り輝いている。
ここを歩くためには、その仄かな明かり……そして、壁に穿たれた通気口から差し込む淡い日差しだけが頼りとなる。
炎鼓と雷鼓は封鎖された出入り口の横に開いた隙間から、ちょうど今、するりと中に忍びこんだところだった。持参した照明器具は使えない。廃墟と化した第七区とはいえ、警邏隊が定期的に見回りにきているのだ。怪しげな光はすぐに発見されてしまうだろう。二人は、警邏隊がいないか確認するため、また、闇に目を慣らすために壁に背を付けてしばらくは動かずにじっとしている。
だが、どうやら今日は大丈夫そうだった。しかし、前に来た時は危うく帰り際に警邏隊の兵士と鉢合わせしそうになったので油断は禁物である。この月舎利第七区には、建前上は警邏隊以外の何人も立ち入り禁止なのだ。
炎鼓と雷鼓は互いに目配せし合うと、腰を低くし、足音を立てずに猫のように早足で歩き出した。
下を向くと足下には無数の線状の凹凸が縦横に走っており、それらがほんのりと青白い光を放っていることが分かる。八年前、あの祭りの日にこの第七区を大混乱に陥れた「糸」の化け物の残骸である。今はもうすっかり乾いて石のように堅くなり、地面に貼り付いてしまっていた。ところどころに盛り上がった塊状のものはよく見れば糸に覆われた白骨であり、それはあの日、糸に絞め殺された人々の姿である。
あれから八年が経って、炎鼓と雷鼓は十三歳になっていた。
糸に覆われたまま放置され朽ち果てた屋台が並ぶ一角に、炎鼓も雷鼓も向かっていく。
道の端には、糸と一体になって固められた小さな容器が三つ転がっていた。かつて炎鼓と雷鼓が慈鳥と一緒に食べた果汁菓の器だ。二人とも敢えてそちらの方は見ないようにして進む。
そうして、ひとつの屋台――おそらく果汁菓の屋台だったもの――に近づくと二人はぴたりと息を止めて様子を伺った。物音はしない。だが確かに何者かがひそんでいる気配はする。
炎鼓の唇がヒュルルルルル、と微かにつむじ風が舞うような音を立てた。
続いて雷鼓がヒュル、ヒュル、ヒュル……と喉元から短い空気音を出す。
そして二人ともしばらく耳を済ます。崩れかけた屋台の影から、ヒュイ……ヒュイ……と掠れるような音が返ってきた。合図だ。
二人は身を翻し、屋台裏に駆け込む。
「よう来た、よう来た」
顔を皺だらけにした老人が二人を待っていた。薬売りの空木だ。服はすっかり古くなってボロボロだが、目をこらしてよく見れば細かい草木模様の刺繍が袖口や首元に施され、月舎利第五区の伝統衣装であることが分かる。
「空木さん、野菜を持ってきたよ」
「米もあるよ!」
炎鼓と雷鼓は背負ってきた袋から早速、食材を取り出す。空木の方は小さい紙の袋を二人に渡した。
「空木さん、調子はどう? 具合はよくなった」
手渡された薬を背負い袋に入れながら雷鼓が尋ねる。
「いやね、年をとるとどうもいけねぇ……薬売りの不養生は洒落になんねぇなぁ」
空木はそう言って苦笑すると、ゴホゴホと何度か咳き込んだ。
「前にも言ったけど、あたし達と一緒にここを出て観竜宮に来てもいいんだぜ」
気遣わしげな炎鼓の言葉に空木は首を振る。
「あの騒動以来、ここに閉じ込められて……はじめのうちはそりゃあ出たいと思ったさ。けども、だんだんここの暮らしも慣れてきたし、仲間もおるしな。今はもうすっかり暗闇に慣れちまった。外の世界は今更わしにゃあ眩しすぎる」
空木はそう言いながら、また咳き込む。
八年前の祝祭の日、糸吐き病罹患者の吐いた糸が暴走し、数え切れない人間が巻き込まれて命を落とした。助かった人のほとんどは第七区から外へ逃げて難を逃れたが、一部の人は逃げ遅れ、その間に警邏隊上層部の判断によって第七区は完全に封鎖された。その逃げ遅れた人の中には空木もいたのだった。
空木もなんとかして逃げだそうと思えば逃げられたのかもしれない。しかし、詳しい事情は分からないが、空木は自分の生まれ育った第五区に戻ることよりも、廃墟となり闇に覆われた第七区で生きることを選んだ。空木の他にも、二十人ほどの人間が同じようにして第七区に住み続けている。警邏隊も彼らの存在は黙認しているようだった。
空木によると第七区を覆う糸の残骸の上に生える特殊な苔があるらしい。空木はそれを採取して乾燥させ粉にして薬にしている。この薬は、炎鼓達のきょうだい弟子であり観竜宮の薬師でもある時告もお墨付きの確かな薬効のあるものだ。
だから、炎鼓と雷鼓はこうして定期的に月舎利第七区までお使いに行き、観竜宮の田畑で獲れた野菜や米を空木の薬と物々交換しているのであった。
「ねぇ、空木さん……何度も訊くようだけど、あの……」
雷鼓が言葉を濁す。
空木はそれだけで雷鼓の言いたいことがすぐに分かったようだった。
「ああ、慈鳥という人のことか……相変わらず、それらしき人のことは聞かないねぇ」
空木は答えた。
祝祭の日の騒動の後、結局、慈鳥は観竜宮には戻ってこなかったのだ。八年も経つというのに、今もって行方は杳として知れない。
空木のところへは、月舎利の他地区からも薬をもらいにこっそり忍んで訪ねてくる人もいるという。だから、誰かから慈鳥の噂を聞いたこともあるかもしれないと思い、炎鼓と雷鼓は来る度に空木に確認するのだが、今のところこれといった情報は得られていない。
ゲホ、ゲホ、ゲホ……と、空木は再び苦しげに咳き込んだ。
「大丈夫かい?」
炎鼓が背中をさすろうとするが、空木が手でそれを押しとどめた。
「……お前達、もうそろそろここには来ない方が良いかもしれんよ。お前達がわしと会うのも今日が最後かもしれん……」
空木は荒い呼吸の合間、掠れた声で言う。
「えっ……それってどういう……」
雷鼓が尋ねようとした時、空木がまた激しく咳き込んだ。喉元からゴボリと濁った音がした。
「空木さん……!」
空木の口から血の滲んだ糸が垂れ下がっていた。
炎鼓も雷鼓も絶句した。
「はや……く……行け……にげ……ろ……」
空木は苦しげに喘ぎながら、絞り出すように声を出した。
次の瞬間、ゴボゴボゴボッ! と激しく泡立つような音がして、空木は弾かれるように仰向けにひっくり返った。白目を剥いて痙攣する。その口からは大量の糸が立ち上っていた。
炎鼓と雷鼓の頭に八年前の恐怖が蘇る。
二人は躊躇う間も無く、脱兎の如く駆けだした。
ビィー……ビィー……ビィー……!
いつの間にか警報音が鳴り響いていた。第七区の壁に取り付けられた監視装置が、侵入者である炎鼓と雷鼓の存在を検知したか、それとも、糸吐き病罹患者の存在を認識したのか……いずれにしろもうすぐ警邏隊の兵士達がここに雪崩れ込んで来るだろう。
足下も覚束ない闇の中、炎鼓と雷鼓は必死に走って出口に辿り着く。炎鼓が隙間から大慌てで外へ出て、雷鼓はそれに続こうとした。
だが、その時、雷鼓はふと後ろを振り返ってしまった。
空木の体から噴水のようにあふれ出た糸の束がうねうねと踊るように、仄青い光を放ちながら暴れている。
その悍ましい光景は雷鼓の背筋にぞっと氷のように凍てつくものを走らせた。
雷鼓は思わず目を背け、あとはもう振り返らずに、扉の隙間に体を捻じ込むようにして琥珀色の光に満ちた外の世界へと脱出した。
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