第2章 青い髪の子(2)

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第2章 青い髪の子(2)

 どくり、どくり、と自分の胸の奥が規則正しく音を立てるのを雷鼓はじっと聴いている。  月舎利の港を後にしてからおおよそ心臓が六千回脈打つ程の時間が経過した、と雷鼓は思った。炎鼓と雷鼓は、海月亀(くらげがめ)の甲羅に跨がり、大気の中をゆるりと静かに沈んでいく。星舎利への帰路だった。  二人ともしばらくは無言であった。炎鼓は雷鼓の肩に頭をもたせかけている。二人の手の指は、互いの体温を確かめ合うようにしっかりと絡み合っていた。  雷鼓は視線を動かして上を見上げる。月舎利を出てから星舎利に向かい、だいぶ下の方まで降りてきたが、ここからだと、やはり月舎利の表面に無数の卵がゆらゆらと揺れている様子が、星舎利から普段見上げるよりもはっきりと分かる。  空はよく晴れていて、いつも通り明るい蜜色の大気に満ちていた。  雷鼓はかつて慈鳥が話してくれた事を思い出す。  慈鳥がいなくなってから観竜宮には一人、家族が増えた。炎鼓も雷鼓も、その時に月舎利から落下した卵を初めて目撃した。慈鳥の言っていた通りだと思った。そこから生まれた子供は、今、元気が良くて明るく活発な少年に育っている。名前は師匠である天蔵が「真金(まがね)」と名付けた。今年でちょうど七歳である。  雷鼓は、自分にもたれかかる炎鼓の頭を動かさないように、そっと顔を左側に傾ける。弧を描いて垂れ下がる月舎利の柱が見えた。第七区の柱だけではない。第六区の柱も、第八区の柱も、そしてそのまた隣の第五区、第九区の柱も整然と居並んでいる。さらに、ここからは幾分遠いとはいえ、それらと鏡映しのようにそっくりな光景が右側にも広がっていた。世界は月舎利を中心にして対照に配置された柱に囲まれているのだ。  月舎利は、下から見上げると、長くて、とげとげしく、一際長い脚を生やした百足のような形である。それというのも、月舎利の各々の地区の両側には「柱」が突き出しているからだ。しかし、「柱」という名は付けど、実際は月舎利を支えているわけではなく、むしろ月舎利から下に向かってなだらかな弧を描きながら「垂れ下がっている」と言ったほうが正しいだろう。その「柱」が百足の脚のように見えるのだ。そして、各々の地区の一端には突起状の部分があり、もう片方の端には窪みがある。地区はそれぞれ突起の部分を隣の地区の窪みに嵌め込むことで緩やかに連結している。まさしく百足の体を形作る節の一個一個のように……。  一方、月舎利の下方に存在する星舎利にも「柱」はある。しかし、星舎利の「柱」は月舎利の「柱」と向かい合うようにして配置されていながら、その長さは月舎利のものよりもだいぶ短い。星舎利は、それぞれおおよそ二十度ほどの円弧を描く形の曲線状の「柱」が三十本、互い違いに組み合わされて形作られている。そのため、星舎利は遠くから見れば縦に切った円筒を内側が上向きになるように置いた形をしており、その円筒の底の部分に土砂が溜まり延々と細長い土地が形作られている。そこには、ひょろひょろとした灌木や草木が生えた荒野があり、真っ直ぐに月舎利を指さすように生えた神木があり、そして、雷鼓達が暮らす観竜宮がある。 「……糸吐き病って一体何なんだろうなぁ」  不意に、炎鼓が雷鼓の肩に頭を載せたままぽつりと言った。  もちろん雷鼓にも分からない。返事が出来ずに黙り込んでしまう。 「ありゃあねぇ、恐ろしい不治の病ですわ」  海月亀が首だけをくるりと後ろに回して口を挟んだ。その顔は年老いた人間の顔だった。亀の種族はもともとは人間なのだ。月舎利では、老いて定年を迎え体が弱り、それでもなお労働することを望む人間は、手術を受けて肉体を改造し、人以外の種族に生まれ変わる。改造後の種族の希望の中でも特に人気が高いのは亀だった。亀は交通関係の需要が高い上に、抵抗が少ない空気中を泳げばよく、素早い動きも要求されないので身体的な負担が少ないからだ。  炎鼓と雷鼓を背に乗せている海月亀五十六号も人間を辞めてから久しい「ベテラン亀」である。  但し、海月亀五十六号はもう公共交通機関としての役割は終えている。第七区での事件があってから、かつては居住や出身を問わずに誰もが入れた第七区は閉鎖され、それとともに月舎利と星舎利の間の行き来は、特別な日を除き公式には断絶ということになったからだ。月舎利と星舎利との間の交通を担っていた海月亀五十六号はそれを機に引退し、今ではこうして星舎利の者がこっそり月舎利に渡ろうとする度に、秘密裏に彼らの往来を手伝っているのだった。 「あれはもともと月舎利じゃあそんなに珍しいモンじゃあありません。八年前みたいな騒動はもちろん前代未聞でしたがね。だけど、あたしの知り合いや友達もみーんなあれにやられちまった」  海月亀はそう言うと頸をぐぅーっと伸ばして目を細めた。 「糸吐き病にかかった人はね、警邏隊が来てどこかに連れていっちまうんですよ」  雷鼓は、あの日、糸吐き病罹患者を手際よく袋詰めにして担ぎ上げていた警邏隊の兵士達の姿を思い出した。 「どこに連れていかれるの?」  雷鼓はおそるおそる尋ねた。 「さぁねぇ。警邏隊は治療施設だって言ってますね。けれど、連れて行かれてから帰ってきた人は一人も見たこたぁありませんでしたよ。だから、あたしも周りがみんな糸吐き病にやられて一人ぼっちになっちまった。寂しくてね。こんならいっそあたしも病にかかりたいと思ったもんでさ。だけどあたしだけは糸吐き病にならなかった……」  海月亀は話好きだ。仕事中にめったやたらと乗客に話しかけるような事はしないが、話し出すと止まらない。  雷鼓は、糸吐き病にかかってどこか知らない場所に連れて行かれてしまうのも怖いが、こんなに陽気な海月亀のような人が友人達を失い、いっそ自分も病にかかりたい等と思い詰めるまで寂しい思いをしなくてはならないのも恐ろしいと思った。  そうやって話しているうちにも徐々に星舎利の港が近づいてくる。  炎鼓も雷鼓も海月亀の甲羅越しに眼下を見下ろす。  徐々に大きく視界に映る星舎利の土地を眺めながら、二人はなんとなくほっと安堵するような気持ちになった。背の低い灌木や草が生い茂るだけの荒涼とした僻地とはいえ、やはり慣れ親しんだ故郷であることには違いない。特に月舎利での恐ろしい風景を目の当たりにした後であればなおさらである。  だが、ちょうどその時、遠くからブゥン……という虫の羽音が微かに聞こえた。 「いけねぇ、影虫(かげむし)だ!」  海月亀が素っ頓狂な声を上げた。  炎鼓と雷鼓がびっくりして顔を上げると、今まさに影虫の大群が黒い雲のようになってこちらに真っ直ぐ向かってくるところだった。  影虫はどこからともなく、何の前触れもなく群れをなして出現し、人を掠ったり、傷つけたり、時には殺したりする害虫だ。影虫の体の形は百足によく似ている。青黒い光沢の皮膚に包まれて蛇のようにうねる体には、沢山の脚が列をなしてうぞうぞと生えている。体長は小さいものでも大人の背丈ほどもあった。さらに体の横には、子供の掌ほどの大きさの透明な(はね)が脚と平行にびっしりと並ぶ。影虫が体をくねくねと波打たせるのに連動して翅の一枚一枚は音速で上下に震動する。この翅の震動によって影虫は空間を自在に飛行することができるのだった。  炎鼓と雷鼓は身を強ばらせた。こんな時には、空中を上下方向にしか移動できない海月亀は逃走の手段を全く持っていない。月舎利と星舎利の間の交通が正常に機能していた頃であれば、警邏隊の助けを求められたかもしれないが、今はそのような応援を頼むこともできない。握りあった手から互いの緊張が伝わってくる。  影虫達はぐんぐんと速度を上げてこちらに近づいてきていた。海月亀が悲鳴を上げる。次の瞬間には、炎鼓も雷鼓も海月亀も、荒れ狂う黒い嵐の中にいた。影虫に囲まれてしまったのだ。光は遮断され、影虫達の猛烈な羽音が耳をつんざく。  影虫は獲物が自分達の包囲網に捕らえられたと分かるとすぐさま攻撃に転じた。周りを取り巻く影虫達の顔の両側にある二つの口吻から、ビュウッと白い糸が一斉に発射されたのだ。影虫の粘着性の糸に触れるとまず逃げる事はできない。そのまま絡め取られて食べられるか、連れ去られてしまう。  炎鼓と雷鼓は、一瞬、お互いに見つめ合い頷き合うと、影虫の糸が体に届く前に、素早く互いの手を振り解いた。 「ヤアッ!」  二人して叫び、それぞれ海月亀の甲羅の左右から下方に飛び降りる。  炎鼓と雷鼓の足が勢いよく別々の影虫の体を踏んだ。  影虫の体を伝って走り、跳び、その下の別の影虫に乗り移り、また走り、跳ぶ。そうやって徐々に下の方へ、星舎利の方へと移動していく。常人には真似できないような軽業だ。  流石の影虫達も自分達の体の上を駆ける者達にはどうすることもできない。下手に糸を吐けば仲間を絡め取ってしまうおそれがあるためだった。  やがて雷鼓は群れの一番下の位置で飛んでいる影虫まで辿り着いた。足元には星舎利の柱の先端が見える。そして、さらにその下には赤黒く渦巻く渡悲海(とひかい)が横たわっていた。ここから柱に向かって飛び降りて、もし失敗したら永久に渡悲海に沈むことになるだろう。  流石に背筋に震えが走る。  しかし、迷っている暇は無い。  足元の影虫は雷鼓を振り落とそうと激しく身を捩っているし、周りの影虫達も隙を見て雷鼓を絡め取ろうと狙っている。  少し離れた場所で炎鼓が影虫から飛び降りる気配がした。  それに勇気づけられるように、雷鼓も思い切り影虫を蹴った。宙に躍り出た雷鼓の体は、風を切って真っ直ぐに落下していく。 「はぁ……はぁ……」  雷鼓は星舎利の柱にしがみつきながら乱れた呼吸を懸命に整えていた。落ちてきた時の衝撃と摩擦で足も手もじんじんと痺れて痛い。けれども、なんとか渡悲海には落ちずに済んだ。  頭上を見上げる。  影虫はまだ群れているようだが、こちらを追ってくるような様子はない。  ほっと一息吐くと同時に海月亀の事を思い出した。無事だろうか?  そう思った次の瞬間、黒雲のような影虫の群れから何かが弾き出されたのが見えた。甲羅をぼろぼろに食い千切られた海月亀だった。海月亀は甲羅に空気を溜めて浮かんでいるから、甲羅が損傷すればもう空中に留まっていることはできない。  海月亀は、泣いているように笑っているようにも聞こえる奇妙な絶叫を響かせながら、渡悲海に落下していった。  雷鼓は渡悲海を見下ろす。海月亀が落ちた海面がちりちりと波立っているのが分かった。雷鼓は、自分の胸の奥がさぁっと凍り付くように冷えていくのを感じた。手足の震えが止まらない。仕方がなかったとはいえ、自分達が海月亀五十六号を見殺しにしてしまったのではないか。そう思うと視界が涙でじんわりと滲んだ。 「雷鼓……!」  暗闇の底に沈んでいくような雷鼓の意識を呼び戻したのは炎鼓の声だった。 「炎鼓! どこ!?」  雷鼓はぱっと顔を上げて辺りを見回した。  炎鼓はすぐに見つかった。雷鼓のいる場所よりもさらに柱の先端の近い場所に……。  しかし、炎鼓は上手く柱の上に跳び移れなかったのか、咄嗟に取り出したと思われる手持ちの小刀を柱の横に突き立て、自身はそこから辛うじてぶら下がるような格好でなんとか落下を防いでいた。 「炎鼓……!」  雷鼓は斜めに傾いた柱の上によろめきながら立ち上がり、炎鼓の傍に駆け寄った。 「へへ……こんくらいどうってねーや」  炎鼓はそう言って、柱に足を掛け、突き立てた小刀を軸にして這い上がろうとしていた。強がりで無理に作った笑顔が引き攣っている。雷鼓は炎鼓に向かって手を伸ばすが、届かない。なんとか手が取れる位置まで上ってきてくれれば……。そう願いながら必死に手を伸ばし続ける。炎鼓も手を伸ばした。二人の指先が微かに触れあう。 「炎鼓、頑張って……もう少し……」  しかし、その時、二人の頭上に黒い影が舞った。影虫だった。柱に縋り付く炎鼓と雷鼓に気がつき、二人に向かって再び群がってきたのだろう。 「あっ……」  炎鼓が声を上げた。影虫の一匹が尾をくねらせて炎鼓に体当たりをしたのだった。炎鼓の体を支えていた小刀の柄から、炎鼓の手が離れる。 「……ッ、炎鼓ぉおー!」  影虫達の無数の羽音を圧して雷鼓の叫びが響き渡った。しかし、雷鼓の呼び声も虚しく、炎鼓は落ちていく。渡悲海に向かって、真っ直ぐに。  雷鼓はぐらりと目の前が傾ぐような絶望に襲われた。  だが、その直後、不意に視界を青白く輝く光が横切った。  光に反応するように、周りで雷鼓を狙っていた影虫達も一斉に動きを止める。  雷鼓は、はっとした。  目映い光の塊は猛然とした速度で飛んでいく。炎鼓を追うように海に向かって……。  重力に従った落下速度を遙かに凌ぐ勢いで下へ下へと駆け、青き光は、炎鼓が渡悲海の海面に衝突する寸前、ついに炎鼓に追いついた。  炎鼓の体は不可思議な青い輝きに抱かれる。そして、海面に叩きつけられることもなく、ふわりと宙に浮かんだ。  光はそのままスゥッと移動しながら、炎鼓を柱の根元まで連れて行ったようだった。星舎利の地に足を降ろす炎鼓の姿が雷鼓からもはっきりと見えた。 「炎鼓!」  雷鼓は柱を半ば滑り落ちるようにして駆け下りた。 「雷鼓……!」  炎鼓が手を振った。  雷鼓は、両腕を広げた炎鼓の胸に飛び込み、炎鼓の体を固く抱き締める。 「良かった、炎鼓!」 「ごめん、雷鼓……」  炎鼓は、泣きじゃくる雷鼓の頭を優しく叩いた。そして、後ろを振り返る。 「なんだかこの子があたしの事、助けてくれたみたいなんだ」  炎鼓の言葉に、雷鼓は鼻を啜り上げながら顔を上げた。  そこには、短く切り揃えられた青い髪、群青の瞳の子供が、一糸まとわぬ全裸の姿で、ぼんやりと無表情に佇んでいたのだった。 
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