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第3章 観竜宮門前市(1)
雷鼓の夢の中では空は青い。まるで果汁菓の炭酸水のように澄んでいて鮮やかな青さが天空に充ちている。しかし、現実では空が青い等という事はあり得ない。本当の空は、明るい蜜色で、夜が近づけば徐々に琥珀色の闇が頭上を覆い、明くる日の未明には山吹色の朝焼けが空一面に広がる。それが世界とともに連綿と続く自然の摂理だ。
だから雷鼓は夢の中にあってもすぐに「ああこれは夢なのだ」と気がつく事ができる。
雷鼓は見る夢はいつもだいたい同じで、まず、青い空をふわふわと漂っている自分自身を発見する。
まるで海月亀のように浮かぶ雷鼓。
眼下には、どこまでも果てしなく続く灰色の荒野が横たわる。そして、そこには巨大で奇妙で不格好な一頭の獣が歩いている。
その獣は、頭部から背中にかけて短く白っぽい毛がしょぼしょぼと生え、一歩歩くごとに毛の塊がわさわさと揺れる。鼻と口は鳥の嘴のように大きく前に張り出していて、口元には尖った牙が並んでいるのが遠くからでもよく見えた。そして、獣は、ずんぐりとした胴体を前のめりにし、長い尾を持ち上げて、短い頸を伸ばして、神経質そうに左右を見渡しながら二本の後ろ脚でひょこひょこと歩いている。後ろ脚はがっちりと太いのに、対照的に前脚は短く小さく、胸の前にちょこんとオマケのようにくっついているのが、どこか滑稽だ。
あの獣は何なのだろう? と雷鼓はいつも首を傾げる。そして、どこへ向かっているのだろう?
しかし、考えてもまるで分からない。
「あれは世界を平らげる神だ」
不意にすぐ近くで声がした。落ちついていて、低い、優しげな声だ。
雷鼓は思わず振り向く。
切れ長の三白眼。はっきりと筋が通った鼻。唇は薄く、ほんのりと赤い……。
そこにいたのは慈鳥だった。
慈鳥は雷鼓と並んで空にぷかぷかと浮かんでいるのだ。
「慈鳥、どこにいたの?」
雷鼓は胸が締め付けられるような想いで慈鳥に語りかける。
「探してたんだよ。炎鼓も待ってるよ。みんな待ってる」
「私はいる。お前達のすぐ傍に」
慈鳥は雷鼓を真っ直ぐに見ながら答えた。
「会えないの?」
「会えるよ」
「いつ?」
「もうすぐ……」
そう言って慈鳥は口を噤み、目を閉じた。規則正しい呼吸音が聞こえる。瞑想に入ったのだ。きっともう雷鼓が何を訊いても答えてはくれないだろう。
雷鼓もすぅっと深く息を吸う。慈鳥の隣に漂い、慈鳥が「神」だと言った不思議な獣をぼんやり眺めながら、空の青さに身を預ける。
ずっと会いたかった人の傍ら、幸せな微睡みの中で何をする事も無く、何も考えることもなく、朝が訪れるまでの間、ただずっと揺蕩い続けている。
「雷鼓! らーいこってば!」
自分を呼ぶ声に、未だ夢うつつの雷鼓はゆっくりと瞼を開く。
目の前には、三角形の耳に木の実みたいな眼、頬に針のようなヒゲをピンピンと生やした白い獣の顔があった。
「もーいつまで寝てるのさ! 今日は市が立つ日だろ~?」
獣はしゃべりながら頭をしきりに振っている。しかし、ヒゲは揺れない。
「……猫が、しゃべってる……」
雷鼓が布団の上にのっそりと身を起こし、ぼんやりとそう口にすると、猫はアハハと声を上げて笑った。
「何だよ! 寝ぼけてるのかよ!」
猫の顔が外れ、その下からニヤニヤ笑った炎鼓の顔が現れた。
「お面だよ。白雨が作ったんだ」
雷鼓はまだ瞼の上に残る眠気をぱちぱちと瞬きで振り払いながら、炎鼓の手の上の猫の面に触れた。堅くて冷たくてサラリとしている。これは確かに木の感触だと思った。けれど、絵の具で塗られたその毛皮はとても柔らかそうに見える。さっきは立体的に見えたヒゲも実は細い絵筆で描いたものらしい。
「へぇ~上手いもんだねぇ」
雷鼓は素直に感嘆した。
いつの間にか炎鼓と並んで雷鼓の寝床の傍らに座っていた白雨は、にこり、と笑った。三十日余りが経ち、白雨は、観竜宮に初めて来た時よりもだいぶ表情が豊かになってきたように思う。
「面だけじゃないんだ! ほら……!」
炎鼓が両腕に抱えるほどの大きさの籠を引き寄せた。
雷鼓は布団の上に胡座をかいて座り、中を覗き込むと、急に眠気が吹き飛んだように目を見開いた。
そこには、蝶や蜂やカマキリなどの昆虫、鯰、泥鰌、メダカ、蟹などの水棲生物、猫、犬、兎などの小型の哺乳類に、大昔に絶滅したと言われる虎や豹、孔雀などの大型生物……それらの姿を象った小さな木彫りの人形がぎっしりと詰め込まれていた。海月亀と思われる人形もあるし、河童、人魚、一角獣など、図鑑でしか見られないような珍しい獣の人形もある。さらには、獣の姿だけでなく、花や果物を象ったものまで……。とにかく多種多様な木彫り細工だ。
「これ、白雨が全部一人で作ったの?」
雷鼓の問いに、白雨はまた一つ、こくりと頷いた。
しばらく共に暮らして、白雨が手先が器用なことは雷鼓も知っていた。暇な時には、小刀で黙々と木彫り細工をしている姿も時折見かける。けれども、ここまで沢山の細工物を作っていたとは驚きだった。
よく見れば、白雨の膝の上には、可愛らしい犬や猫の面の他にも恐ろしげな鬼神や龍神の面が載っている。
「参拝客の土産物に、さ……売れると思わないか?」
にんまり笑って炎鼓が言う。今日の門前市で売るつもりなのだ。
観竜宮の参道の門前市は三十日に一度開かれ、市の日だけは特別に月舎利と星舎利との間の往来が可能となる。満願成就の御利益があると言われる神木に祈りを捧げるため、月舎利から星舎利へ参拝客が訪れ、ついでに市での買い物や観光を楽しむのだ。人々の不安を紛らわすためか、観竜宮への参詣の行事は、幸い、八年前の事件以後も中止されずに続いている。もっとも、往来が許可されると言っても、行き来ができるのは月舎利の住人だけであったが……。
この門前市では、時告は自ら調合した薬や香を売る。夕虹は辻占いをやる。炎鼓と雷鼓は二人で大道芸を披露する。器用な真金はその時々で他の四人の仕事を手伝い、炎鼓と雷鼓が芸をやっている時には笛を吹いたりもする。そうやって五人で協力して生活に必要な金を稼いで生きてきた。
しかし、白雨は警邏隊に追われているので迂闊に観竜宮の外には出られない。土産物用の木彫り細工を大量に作っていたのは、白雨なりに家族に協力し、自分の力で生活の糧を得たいと思っていたからだろう。
「白雨の細工は俺が売るよ!」
既に着替え終わった真金が本堂の戸を開け放ちながら言う。
「今日は良い天気だからお客さんも沢山来るだろうしね」
長い赤髪を背中まで垂らした夕虹も白雨の隣に腰を下ろし、おっとりと笑う。
時告の姿は見えないが、おそらく今日売る品物を選ぶために蔵に行っているのだろう。天蔵は、今日の参詣客を迎える準備をしている頃だ。
戸口から見える朝の空は、やはりいつもと変わらず明るい蜜色に煌めいていた。雷鼓は眩しさに目を瞬かせる。
「さぁ、雷鼓っ、急いで! 早いところ着替えて準備をしようぜ! 今日はいつもより沢山稼いでやろう!」
炎鼓は雷鼓の腕を取って立ち上がらせると、大道芸用の色鮮やかな衣装を雷鼓にグイと押しつける。
「ちょっ……ちょっと待ってよ! 急ぐから……!」
一際朝に弱い雷鼓は、よろめきながらも大慌てで寝間着を脱ぎ捨てて着替え出す。その様子を白雨はくすりと微笑みながら眺めていた。
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