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第3章 観竜宮門前市(2)
いつもは閑散としている星舎利の道に今日は人が溢れている。規模の小さな市でがあるが、人々の笑顔や賑わいはかつての月舎利第七区の祝祭の風景を思い出させる。
雷鼓と炎鼓は三回ほどの大道芸を終えたばかりで、道端に座って休憩していた。
今は、慈鳥に教えてもらったお手玉を使った技の他にも、椅子や梯子を積み上げてその上に駆け上ったり飛び跳ねたり、あるいは、投げ輪を使ったりと多彩な技を自在に披露できるようになっていた。二人の大道芸は門前市の花形である。
「お疲れさん、二人とも。今日も面白い技を見せてもらったよぉ」
腰の曲がった老人が二人に話しかけてきた。名前を常盤という。月舎利住人の往来のために臨時に開放される港を挟んで、月舎利とは反対側の荒野に常磐は住んでいる。常磐は農地を持っており、よく観竜宮に野菜などを届けてくれるのだ。
常磐は二人に紙袋を差し出した。中には甘塩っぱくて美味しそうな餅菓子がころころと詰まっている。常磐も市の日に屋台を出して菓子を売っているのだった。
「お代はいらないよ。食べておくれ」
「えっいいの?」
「ありがとう、常盤さん!」
「いいんだよぉ。良いものを見せてもらったお礼さ」
常磐はそう言ってにこにこしながら、曲がった背中を二人に向けて去って行く。
炎鼓がおもむろに立ち上がった。
「炎鼓……? どこいくの?」
「観竜宮。このお菓子、白雨にも分けてやろうと思ってさ!」
そう言うと炎鼓はウキウキとした足取りで瞬く間に駆けて行ってしまった。
「炎鼓……」
雷鼓はなんだか面白くない。ため息を吐くとふくれっ面をしながら、一人で餅菓子をボリボリと貪った。
もやもやする。なんだかよく分からないけど気に入らない。
白雨が来る前は炎鼓はいつも雷鼓と一緒にいてくれたのに、最近は炎鼓は白雨に構ってばかりだ。白雨に炎鼓を取られてしまったようで、ぼんやりとした焦りと不快感が胸にじわじわと溜まっていく。そして、そんな自分の心がとても狭くて小さいもののように思えて、心なしか息苦しい気持ちにもなってくる。
――ああ、白雨が来なければこんな思いしなくて済んだのに。
思わずそんな言葉が胸の中に浮かんできてしまう。
雷鼓の中で一番大切な存在はいつも炎鼓だった。だから、雷鼓も炎鼓にとっての一番でありたかった。けれど、炎鼓の心はあくまでも炎鼓のものだ。炎鼓の心を無理矢理自分に向けることなどはできない。
「はぁ……」
雷鼓はもう一度ため息を吐いた。
その時、視界の端でぽとりと何か赤いものが落ちた。
――血……?
一瞬、誰かが怪我をしたのかと思ったが、違うようだった。その赤は水滴のように小さいが固形物のようである。
雷鼓は顔を上げる。その視線の先には、額に二本の角を生やした鬼神がいた。否、白雨が作ったと思しき鬼神面を被った人物が、こちらの方を振り返り、じっと雷鼓を見つめているのであった。面は真金から土産物として買ったのであろう。仮面の奥からは青い瞳が覗いていた。
――あれ? 私、あの人のこと、知ってる……?
雷鼓は妙に落ち着かない気持ちになった。鬼神の面を被った人物……顔が見えないながら、確かに以前どこかで出会った事があるような気がする。でも、どこで……?
雷鼓は必死に記憶を探ろうとするが、その間にも鬼神の面の人物はすっと顔を背け、向こうの方へ歩いていってしまう素振りを見せた。
雷鼓は慌てて立ち上がった。そして、地に転がっている赤いものを拾う。これはあの鬼神が落としていったものではないかと直感したからである。拾ったものは紅玉石にも似た、透き通った小石のようであった。
雷鼓は石を握りしめて周囲を見渡す。港へ向かう方向、人々の頭越しに鬼神の面が立ち止まって振り返っているのが雷鼓の目に映った。
――やっぱりあれは……。
鬼神は雷鼓の姿を認めると、再び歩き出す。もしかしたら自分を誘っているのかもしれない、と雷鼓は思った。
鬼神の背を雷鼓は追う。見失わないように、けれど、近づきすぎないように、ある程度の距離を保ったまま大股で歩いた。
港が近づいてくる。観竜宮への参拝へ向かう者、参拝を終えて月舎利に帰る者が行き交い、人の数が一層増えてきた。
頭上を見上げれば、月舎利の港と星舎利の港を往復する海月亀達が列をなして並んでいる。雷鼓達をこっそり月舎利に渡らせてくれていた海月亀五十六号とは違い、今日のような市の日に臨時で集められて駆り出される亀達である。鬼神もあの海月亀のひとつに乗って月舎利にやってきたのだろうか?
しかし、鬼神は港に辿り着いても歩調を緩めなかった。そのまま、人で賑わう狭い港を通り抜ける。そして、港の向こう側に続く、人気の無い荒野の方へ進んでいく様子である。常磐の農地がある方角だ。
港を抜ければ、市の日の喧噪は嘘のように静寂に取って代わる。道はまともに舗装されておらず、白茶けた石が地面を覆い、歩きにくい。辺りには、乾いて背の低い灌木だけがカサカサと風に揺れている。灌木の茂みからは時折、兎やイタチが顔を出し、突然の人の気配に驚いて逃げていった。どぷん、どぷん、と渡悲海の水が波打つ鈍い音だけが響く。
鬼神はやはり歩みを止めない。荒野のこの道を歩いているのは、もはや、鬼神と雷鼓の二人きりである。
やがて鬼神の向かう先には一匹の巨大な大蛇が姿を現した。とぐろを巻いている。雷鼓の体など難なく丸呑みできてしまいそうなくらい大きい。玉虫色の鱗が光る。飛行蛇だ。蛇は円い目で渡悲海の広がる景色を眺めているのか、じっとして、ただ口吻から細い舌をちろちろと頻りに出し入れしていた。
鬼神は蛇の前で立ち止まると、くるりとこちらを向き、そのとぐろの上に静かに腰をかけた。蛇は慣れているのか、ピクリともしない。鬼神は明らかに雷鼓が来るのを待っている様子だった。
鬼神は面を外す。その下からは痛々しい火傷の跡で覆われた顔が現れた。
「久しぶりだな」
絞り出すような嗄れた声が語りかける。
「貴方は……」
雷鼓はようやく思い出した。目の前の人物は、八年前の月舎利第七区で雷鼓が大道芸の売り上げを盗まれた時に掏摸を捕まえてくれ、例の騒動の中で雷鼓達を逃がしてくれた兵士だ。
名前は確か……。
「野晒だ」
相手は雷鼓の心を見透かしたかのように名を名乗った。
「今は月舎利警邏隊の長官をしている」
そこで、雷鼓はもう一つ思い出す。野晒は、先日、白雨を探して観竜宮にやってきた七人の警邏隊のうち、長い外套を羽織ったあの仮面の指揮官だったのだ。
「どうして……野晒……様? 慈鳥は……」
雷鼓は気が動転して、喘ぐように断片的な言葉を発するのが精一杯だった。
しかし、野晒は雷鼓の言いたいことはそれだけで充分に汲み取ったらしく、淡々と答えた。
「私の事はただ野晒とのみ呼んでくれればよい。慈鳥の行方は知っている。慈鳥は生きているから安心するといい」
「……ッ!? 慈鳥は!? 慈鳥はどこ!?」
雷鼓は、野晒の口から慈鳥の名が出るのを聞くと、弾かれるように野晒に詰め寄った。
「ねぇ……慈鳥は一体今何をしているの!? 生きているなら……無事なら何で帰ってこないの!? 野晒……貴方は一体……!」
「落ち着け」
野晒は、半ば泣き叫ぶような雷鼓の言葉を手で制する。
「我々、警邏隊が青い髪、青い瞳の子供を探しているのは知っているな?」
雷鼓の心臓がどきりと跳ね上がる。
「……知っているな?」
野晒は質問を繰り返す。
雷鼓はこくりと頷いた。
「観竜宮にいるのか?」
野晒の質問に雷鼓は固まる。ここで首を縦に振るわけにはいかない。
「答えてくれれば慈鳥の行方を教えよう」
動悸が速まる。呼吸が浅くなる。雷鼓は目眩を感じた。野晒に見つめられるうちに頭の芯がだんだんとぼんやりとしてくる。
「君が答えたということは誰にも言わない。約束しよう。さぁ雷鼓……正直に答えてくれ。青い髪、青い瞳の子供は観竜宮にいるね?」
気がつけば、雷鼓はこくりと頷いていた。しまった、と思うがもう間に合わない。
「そうか……ありがとう」
野晒は、火傷跡で引き攣った頬に笑みを浮かべた。
「あの子のことを悪いようにする気は決して無いんだ。そこは安心してくれていい」
野晒は雷鼓を諭すようにそう言うと、フゥーッと長いため息を吐く、しばらく思案するような様子を見せた。
「……さて、慈鳥の事だが……実はそれを、今、ここで君に話すわけにはいかない」
「……!? ちょっと! どういうこと!?」
雷鼓は思わず叫び声を上げた。
「嘘つき! 教えてくれるって言ったじゃない! 約束守ってよ!」
「まぁ待ちたまえ。あくまでも、今、ここでは……という話だ。七日後の夜……星舎利の港に迎えを送ろう。君はそれに乗って月舎利第七区に来てくれ。そうしたら、私は慈鳥のことを君に包み隠さず打ち明けることができる」
「それは、今ここで……じゃダメなんですか?」
「駄目だ」
野晒ははっきりと言い切る。
「慈鳥の行方を知りたければ私の言う通りにすることだ。それと……」
野晒の長い指が、雷鼓の握りしめられた右の拳を指し示した。
「君が拾った赤い石……くれぐれもそれを無くさないようにな。慈鳥の行方を探るための鍵となるものだ。肌身離さずに持って月舎利にまで来るように」
野晒はそう言い残して立ち上がった。「さぁ行くぞ」と、今まで椅子代わりにしていた大蛇……飛行蛇に話しかける。野晒の声に応えるように、蛇はもぞりと身を震わせた。すると、蛇の背中一列に、奇妙な形に反り返った背びれのような突起が七つにょきりと顔を出す。野晒は一番先頭の背びれに横座りに腰を掛けた。
「会えるのを楽しみにしている……雷鼓」
野晒はそう言って目を細めると、鬼神の面を再び顔にかけた。
飛行蛇はゆるゆるととぐろを解き、長い身をくねらせながら頭を真っ直ぐに天に向けて上昇していく。
雷鼓は、月舎利に向かって忽ちのうちに小さくなっていく飛行蛇の姿を、しばらくその場に佇んだままぼんやりと見送っていた。
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