序章 訪れ

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序章 訪れ

 空が軋む気配がした。しかし、ギギ、と乾いた音が鳴った……と思ったのは慈鳥(じちょう)の気のせいだろう。遙か上空、月舎利(つきしゃり)の音がこの星舎利(ほししゃり)の地まで聞こえるはずはない。  星舎利に建つ唯一の寺院・観竜宮(かんりゅうきゅう)の若き僧侶・慈鳥は、ふと、ある胸騒ぎを覚え、箒を掃く手を止めて頭上を見上げた。  僧とは言っても、墨染めの衣を身に纏っている他は、顔立ちには幼さが残り、まだ頭も丸めていない。髪は黒く、瞳も黒曜石のような黒の中に水晶を砕いたような光を孕んでいた。 「どうしたんですか、慈鳥? 月舎利なんかを見つめて……」  隣で掃除をしていた十くらいの齢の少年あるいは少女・時告(ときつげ)が怪訝な顔で慈鳥を見上げた。明るくふわふわとした栗色の髪の下であかがね色の瞳が光る。きりりとつり上がった眉はいかにも気が強そうだった。 「いや、月舎利の揺れが今日は大きいと思ってな……」  慈鳥は時告を振り返る。 「揺れ?」  時告は怪訝な顔をした。 「慈鳥、お前にも分かるのか」  慈鳥がさらに言葉を継ごうとしたところ、二人の背後から低い声がかかった。  観竜宮の住職・天蔵(てんぞう)だった。頭を丸く剃り上げ、筋骨逞しい見た目だが、目元は優しげである。天蔵の後ろには大きな裾に隠れるように赤いおさげ髪の幼子が付き従っていた。天蔵の三人の弟子のうち、一番年若い夕虹(ゆうにじ)である。 「今日はどうやらおいでになりそうな気がするよ」  天蔵はそう言ってやはり空を見上げていた。   「なにがくるのですか、おししょうさま?」  夕虹が天蔵の僧衣の裾をぎゅっと握り、くるりと瞳を回して尋ねる。 「お客さんだ」 「当寺の参拝客ということで?」  今度は時告が尋ねた。 「いや違う……マロウドだ」 「マロウド?」 「客人だよ。ここに来てやがて去って行くならお客さん……だが、その者がやって来てここに留まるのなら我々の家族になり得るかもしれない」  謎かけのような言葉だった。時告も夕虹もきょとんとする。  しかし、慈鳥には天蔵が言わんとしている事が、なんとなくだが、分かった。  天蔵の言葉を肯定するかのように観竜宮の傍らに佇む檜の神木がゆらゆらと枝葉を揺らす。天蔵の視線も慈鳥の視線もその神木の頂の梢よりもさらに上、ずっとずっと上、遙か彼方の上に向いている。  その二人の視線の先では、いつもと変わらず、もったりと蜜色に煙る大気を背負って白茶けた巨大な橋のような構造物……この世の中心をなす土地・月舎利が天の真ん中を堂々と横切っていた。そして、その表面には、何かが産毛のようにびっしりと生い茂り、月舎利が揺れる度にざわざわと蠢いているのが、この星舎利からもよく分かる。それらは、実は、数千万もの数の人間の卵の群れなのであった。 「来るぞ」  天蔵が言った。  その言葉が合図でもあったかのように、天蔵達の目の前で月舎利が二度、三度、大きく左右に捻れるように揺れた。  月舎利の揺れに合わせてきらきらと輝きを放ちながら光の粒のような卵が振り落とされ、宙に舞う。  始めはほこりのように見えた一粒一粒が、見ている間にどんどんと大きくなる。  そして、ちょうど内側の胎児の姿がぼんやり見えるくらいの大きさになったと思った瞬間、卵達は観竜宮の両側に広がる赤黒い渡悲海(とひかい)の水面に次々に衝突していく。  光の雨が降っているかのようだ、と慈鳥は思う。何度見ても不思議な気持ちになる光景だった。どぷん、どぷん、という鈍い波音とともに、目の前で無数の命が海に消えていく。 「ああ……あれはこちらに来そうだな」  慈鳥は慌てて天蔵の視線を追う。  一個の卵が、確かに、こちらに向かって真っ直ぐに飛来してくるようだった。猛然と大気を切る落下の速度に呼応するように、風がゴウッと逆巻く音がする。 「お前たち、ここは危ない……ひとまずあちらへに行こう」  慈鳥、時告、夕虹の三人の弟子達は、天蔵に促されるままに足早に神木の根元へ移動した。  その次の瞬間……。  ドオオォォ……ン!  この世の全てが砕け散り、割れるような轟音が四人を襲った。 「うわあ……!」  夕虹が頭を抱えて悲鳴を上げた。慈鳥が咄嗟にその小さな体を抱き寄せる。  神木の枝が引き裂かれて折れ、大地に降り注いだ。爆風が吹き、砂煙が舞い上がる。視界が白くなり、しばらくは何も見えない。息すらもできなかった。四人は揃って激しく咳き込み、涙を流した。 「げほっ……げほっ……あれが……おい、お前たち……分かるか? けほっ……あれだ。来たぞ……ついに……どうだ、俺が言った通りだろう……げほっ……」  天蔵は砂煙がまだ治まらない中をよたよたとよろめきながら歩いて行く。 「お師匠様……!」  慈鳥も袖で口元を覆いながら慌てて後を追った。  自分も十六年前、同じように月舎利から振り落とされ、この星舎利に落下したところを天蔵に拾われたのだった。しかし、自分の時はこんなにも騒々しい訪れだっただろうか? 勿論、覚えてはいないが、時告、夕虹の卵が落ちてきた時の事はよく覚えていた。いずれの時も、こんなにも嵐のような有り様にはならなかったように記憶している。  慈鳥の後からは少し遅れて、互いに手を繋いだ時告と夕虹が続く。  四人が向かった先の地面には直径2mばかりの穴が開いていた。  揃って覗き込む。両腕で抱え込める程の大きさの卵が転がっていた。 「おお、これは珍しい! 双子だ」  天蔵が声を弾ませた。 「双子!? 本当ですか?」 「すごーい! おししょうさまのゆったとおりだ! かぞくがふえるんだね!」  時告、夕虹も興奮気味に声を上げる。慈鳥も目を見開いた。  水晶のように透き通った球体の中に、手足を縮めた姿勢の胎児が二人、窮屈そうに詰め込まれていた。二人分の重さを持っているから、落下の衝撃も一際大きかったのかもしれない。  天蔵は足を踏ん張りながら穴を滑り降りて、卵を持ち上げた。 「おおい、手伝ってくれぇ」  天蔵に言われて慈鳥も慌てて手を伸ばし、卵を引っ張り上げる。 「こりゃあ賑やかになるぞ」  天蔵は砂まみれの顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑う。 「一気に二人ともなると面倒をみるのが大変そうですが……」 「だいじょうぶ! あたしがおせわするよぉ」  顔に不安そうな色を浮かべる時告と、頬を紅潮させて満面の笑みを見せる夕虹。 「そうだ。名前をつけなくちゃいけねぇ。慈鳥、この二人の名前を考えてくれ」  天蔵は慈鳥の方を振り返った。 「私が、ですか?」 「おうよ。お前は書物をよく読むから俺よりも良い名を付けられるだろう」  唐突に名付け役を振られて、慈鳥は戸惑う。  しかし、少し考え込んだ後で、慈鳥はすぐに口を開いた。 「火炎の如き勢いで、雷鳴のように騒がしくこの島に訪れたきょうだいです。……一人は、炎の鼓と描いて炎鼓(えんこ)、もう一人は、雷の鼓と描いて雷鼓(らいこ)……。どうでしょう?」 「エンコと……」 「ライコ!」  時告と夕虹が顔を見合わせた。 「うむ、炎鼓と雷鼓か……良い名前だ」  天蔵は満足げに頷く。  透き通った卵の中で、小さな炎鼓と雷鼓はもぞもぞと手足を動かしながら、形の無い夢の世界を揺蕩い、微睡み続けている。
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