2話

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2話

チリはキッチンで水を飲み込んだ。 気持ち悪い、チリは胃から酸を吐き出しそうになりつつ、口を手で覆う。 頭はガンガンと警告音が鳴り響く、久しぶりに二日酔いというものを体験していた。  東藤が言うには、昨夜俺は呂律の回らない口で東藤に絡むほどに、相当酔っていたらしい。 そしてスタッフルームで倒れるように寝た俺を、自分の家まで連れて来て介抱してくれたようだ。 けれどそんなに悪酔いしたつもりは無かったが、鈍い思考と曖昧な記憶、いつもは飲まない濃度の高いアルコールもあって、大変だったと苦く話す東藤の言葉は全て事実だろう。   介抱したのが東藤じゃなかったらこんなにも悩むことは無いのに、俺は新しいシャツのボタンを弾く。 自分の面倒を全て任せてしまったと落胆するチリは、ある事が引っ掛かり心配だった。 酔って店に迷惑をかけたのは勿論、東藤に何か要らない言動をしていないかだ。 横目でチラリと東藤を伺えば、2人用のソファーでくつろぎ、いつものように本を広げてゆったりとしていた。 すると、俺の視線に気が付いたのか東藤は本から目を離しにこりと笑顔を作り振り向く。 「二日酔いの薬、棚の上置いといたから」 「あっ有難うございます……」 チリは直ぐに背中を向けて、言われた棚の上の薬瓶を強く掴み、ザラザラと瓶から錠剤を手に乗せる。  心臓が高鳴る音共に耳が赤くなるのを感じつつ、錠剤を水と共にゴクリと一気に飲み干す。 東藤のいつもと変わらない様子で、淡々とした会話に気まずい空気でもない、昨夜は悪酔いしただけで事が済んだようだ。 「俺も水と薬が欲しい」 「東藤さんもですか?」 「ああ、昨日は飲みすぎで頭が痛いんだ。」 東藤はそう言って俯くように目頭を押さえる。 確かに心なしか、いつもより覇気がなく気分が悪そうに見えた。 体調悪いのは勿論だが、どこか不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。 こんなにも物憂げを見せる東藤は珍しいとチリは少し驚きつつ、水の入ったペットボルトと先程の薬を持って東藤に近づき。 「ありがと」 「いえ、別に。」 ソファーに座る東藤にチリは水と薬をそっと渡すと、 「あの、どうかしましたか。」 東藤はいつも通りの素っ気ない笑顔のままで答えはしない。 そして何故か、薬を渡した手を東藤は握ったままで離そうとはしなかった。 重なり合う二つの目線は時間が止まった様に静止し、時計の針だけが無心に音をたてて動く。 目がまったく笑ってない、こういう時の東藤は大抵何かに気分害して怒っている時だと知っている。 一向離れない手、チリはやはり何かをしてしまったのではないか、皮膚に針が刺さる緊張感は背筋が真っ直ぐと伸びさせ、体が硬直していくのを感じ。 「チリは」 張り詰めた空気、細い線を辿るようにゆっくりと東藤の唇が開く、チリは緊張のあまり生唾をゴクリと飲み込んだ。 しかし、ある一つの音でチリがその綴る言葉を聴くことはなかった。 ピーンポーン と静かな2人の空間に、無遠慮にインターホンが鳴り響いた。 こんな時間に誰だ、東藤は魔がわるいと口をつねらせ、仕方がなくチリの腕を解放し東藤は重い腰を上げてインターホンを覗く。 強く握られていた腕をやっと解放された同時にチリは足の力が抜けて、ずるずると床にすべり落ちていく。 東藤から感じたことのない恐怖に緊張がまだとけていないのか、心臓が早く鼓動を打って警戒していた。 誰かは分からないが突然の来訪に感謝の言葉を今は送りたい。 「はい?」 「あの、えっと、こんな朝早くにごめなさい。」 向こうから聞こえたのは若い女の声。 会ったことないというのにおっとりした声だけで、優しくて可愛い女の子である事がすぐに浮かぶ。 極端に言えば、兄さんみたいな人だ。 そして、彼女が東藤に向けるとろりと甘く熱ぽい声は俺と同類だ。 「なに、どうしたの」 「あのね私、恐くなって……」 「うん?」 「わたし……突然ごめんなさい私やっぱり帰る。」 段々と声のトーンが下がっていく女は、悩んでわざわざ尋ねたのに帰ると言い出した。 優しく尋ねて耳を傾ける東藤。 帰ろうとする彼女を決して引き止めないだろう。 彼にとっては数いるうちの1人がいなくなるだけで、おだやかな日常は何も変わらないのだ。 来るもの拒まず、去るものは構わず、東藤という男は深く相手を陥れ、そして何にも染まらない靡かない。 いつか、いや明日の自分かもしれないと思うと、喉奥がつっかえて苦しくなる。 「帰ります。」 チリがそう言うと怪訝そうに東藤は振り向く。 今ここで震えている彼女を帰せば自分を見捨てられるようで嫌だった。 そんな想いもあって、チリは自分を断る理由にならない為に帰る準備を整える。 「相談にのってあげてください。なんだか女の子今にも泣きそうですし。」 ここには居たくない。 同じ境遇の女を救ってほしいと思うと、同時に断って欲しいと思うのは嫉妬できたエゴ。 そんなところを東藤には見せたくもない。 「それに、今日は朝から店の準備があるので行かないといけないんです。」 ただ隣に居たい、内に秘めた想いは隠し必死に笑顔を振りまくチリ、電話で呼べば直ぐに行きますよと軽く口を叩いて自分自身も誤魔化した。 「嗚呼、分かった。お前の服はまだ乾いてないから、また取りに来い。」 察してか知らずかしぶしぶといったところで東藤は、インターホンの向こうの女を呼び止める。 そして女を呼び止めると待っていたと言うように上擦った声が直ぐに飛んできた。 「はい、お願いします。昨夜はありがとうございました。」 準備が整ったチリは最後に端に置いてあった鞄を持って出口に向かう。 その通りすがりに東藤がまたなと笑うと、自然な手つきでチリの髪の毛ワシャッとかきあげた。 チリが口にできない熱った感情が湧き上がったのは言うまでもない。 無自覚だろうな。 そして玄関口には驚いた顔。 深刻な闇があった筈の女が、悩みなんて吹き飛ばしたように上機嫌で足を踏み入れいた。 フローラの良い匂い。 長い髪、柔軟で高くない身長、雰囲気は優しく清楚な女の子。 まさに東藤が好きそうだと達観しつつ、あの甘くて高い声がチリの想像していた見た目とほぼ変わず鼻で笑う。 女の方はチリを見てまんまると目を丸くさせては、苦しそうに下唇を噛み、そして顔を下に向けた。 どうしたのだろうか、女の反応が気かがりだったが、今は帰りたい、そんな気持ちがいっぱいの俺は迷わず玄関の冷たいドアノブを捻った。
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