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東片は運転席の窓を下げた。
走行中の車内に、やや湿気のある空気が入り込む。風は勢いよく東片の頬を撫で、後部座席へと流れていった。
「ぬるいな、」
後部座席の男が笑った。
「冷房のほうが良かったです?わたくしはこっちのほうが気分がいいんですが」
「いいよ。このままで。それで本社までどれくらいなんだ」
「う〜ん、あと三時間はかかりますね。なにか話でもしますか?」
「そうだな、」
男は窓の外を見た。
深い青に発光する空に雲は一つもない。その下で、田んぼの水面は四方の山を映し、光を無数に反射している。
「俺の名字は何になる予定なんだ?」
「順当に行けば、北片ですね。あそこの連中、人足りてないんで」
「北片、ねぇ」
「〈星崎〉と比べればだいぶ見劣りするでしょう。なに、すぐに慣れますよ。名字というより、相撲取りの部屋名みたいなもんです。名乗ってるうちにしっくりくる」
相撲、と言って男は――星崎静は笑った。
「車はお好きなのを選ぶといいでしょう。ただしクラシックカー限定です。社長の趣味なんでね。」
「俺は詳しくないんだよ。何がいいと思う?」
「そうですねぇ。あなたはアストン・マーティンなんかが似合いそうです」
道路は前方にまっすぐ伸びていた。東片がアクセルを踏み込む。車は速度を上げ、田園風景がどんどん後方に流れていく。
「……今どの辺なんだ、」
「さあ。山梨あたりでしょうかね。来たことあります?」
「いいや、」
静はふっと微笑むと、見知らぬ景色を眺めた。
「俺にはまだ、知らない場所が多いな。」
「そうでしょう。わたくしすら、まだ行ったことのない場所が山程ありますよ。」
知らない土地。知らない人。知らない神々。
それらに向かって、車は走っていく。
「ま、同僚としてひとつ、よろしく頼みますよ、北片静さん。」
窓ガラスに静のほほえみが映り、知らない山々の上に重なっていった。
(了)
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