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「先輩、そろそろ起きませんか、」
布団の上で体を揺すっても、静は微動だにしなかった。
「先輩ってば」
二度そういうやり取りが続いたあと、三度目でようやく彼は瞼を開けた。
すでに空は光を放っていた。雨雲の持つ、ぼんやりとした灰色の光だった。
「九時半すよ。どんだけ寝るんすか……、」
呆れるようにそう言った直後、洸太は体を揺する腕をピタリと止めた。
静はたしかに目を開けていた。だが、その目は遠く虚空を見つめていた。口元は薄く開かれ、どこか――死体に似ている。
「……先輩、大丈夫ですか、」
打ち捨てられた人形のような無機的な雰囲気をまとう静に、どことなく寒気を覚えた。
「先輩、」
「……、」
静の頬に触れたその瞬間、ようやくその目に光がやどり、顔に生気が差し込む。
「……なに、洸太、」
澄んだ黒目が洸太の方を向く。
「……朝ですよ。」
「朝?あぁ……、」
ほんとだ、というと、静は誤魔化すように笑った。
洸太は不穏な気持ちを奥にしまいながら、彼から布団を剥ぎ取った。
それから身支度を済ませ、二人で車に乗って山を走った。
あまり家から出ないほうが良いかとも思ったが、静がどうしてもというので、結局洸太はそれに従わざるを得なかった。
目的地は〈猿藍の神社〉。紫陽花の有名な神社で、観光客にも人気がある。本当はもっと厳かな名前をいただいた社だが、この地方の人々はこの森全体を〈猿藍〉と読んでおり、いつしか神社もそう呼ばれるようになった。
静はこの場所が好きだった。
車は霧の中を走る。山は灰青の煙霞に覆われ、走るほどにフロントガラスに細かな水滴がついていく。
洸太は自分好みにカスタムしたハンドルを小刻みに回した。
「相変わらずのヤン車だな、」
助手席の静が笑う。
「ヤン車じゃないっすよ」
少なくとも、外見は普通のコンパクトカーだった。内装はほんの少しだけ、いじってある。ハンドルとか、ホーンとか、LEDとか、モニターとか。でもまぁその程度だ、と洸太は思っていた。やるやつはもっとやる、と。
窓の外では代わり映えのない景色が次々と流れていく。
「お前、車は好きなのに、ほんとにどこも行かないよな。職場と買い物くらいだろう」
「そうっすね、」
「旅行に行けよ。」
「……嫌ですよ。知らない土地じゃ勝手が違うし、飯一つ、泊まるところ一つ取ったって、全部一から自分で決めなきゃいけないじゃないっすか」
「それがいいんじゃないか。考えてみたことあるか?道を選ぶのも、休憩するのも、全部自分次第だ。どこまでも続く道と時間を、自分の力で区切るんだよ。」
「それが面倒くさいんですよ」
静と付き合っていた頃、旅行らしい旅行は一度も行ったことがなかった。
「先輩は?せっかく幽霊になったんだから、どこにでも行けばよかったじゃないですか。なんでまた、俺のところに」
静は声を立てて笑うと、「それはさ、」と言ってフロントガラスの方を向いた。
「お前に会いたかったからに、決まってるだろう。それに、俺は死んだその日から、この山から出られなくなってる。魂が、山に囚われてるらしい」
「囚われてる?」
「そうだ。土砂と一緒に、魂も山に飲み込まれたんだ。あの瞬間、俺は山と一つになった。聞いたことあるか?兎和山は、死んだ人間で出来てるって」
「――、少しだけ」
祖母の寝物語を思い浮かべる。
「俺はまだ死んで一年ばかりだから、こうして自分を自分だと思えているけどね。やがて少しずつ境界がなくなっていって、あの山に溶けるんだよ」
「溶ける、」
「そうだ。」
静は遠くを見ながら言った。
「だから俺は東片に、ここから出してもらうように頼んだんだ。」
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