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空が白み始めた頃、洸太は車内で目を覚ました。
こめかみのあたりがズキン、と痛む。
隣では静が洸太の肩にもたれながら寝息を立てていた。その頭をそっとシートに戻すと、音を殺しながら車のドアをあけ、外へ出た。
人の影はなく、はるか遠くを流れる激しい川の音以外は何も聞こえない。あたりには灰青の霧が漂い、髪や肌を冷やしていく。
このあたりは古い民家が多い。木の壁や、トタン屋根の軒下に、夜の残り香のような闇が潜んでいた。
ふと、頭上で雀がチュチュ、と鳴く。
そばにあった電柱を見上げた瞬間、鳥の声はかき消され、〈ゴォン〉という低く滑らかな山の泣き声が聞こえた。
どこで呼んでるんだろう。
ふと、上着のポケットに突っ込んだ手が、何かにあたった。
事故現場を訪れた際に、笠寺から受け取ったマッチだった。
今どきマッチを常備しているホテルも珍しい。だが洸太にはそういうホテルに心当たりがあった。
マッチを取り出して、書かれた名前を見る。
〈ホテル アンジャベル〉
母方の親戚である、朝子のホテルだった。
それはかつて静が働いていた場所でもある。
笠寺はそこに泊まっている。
雨が降っているうちはそこにいると言っていた。
洸太は振り向き、遠く山の方を仰いだ。灰色の霧が山を包み、空と山の境目は曖昧になっている。
――笠寺は今、何をしているのだろうか?
もし、今も山にいるのなら――静に会えばいいのに。
最後の日に約束していたのは、彼なのだから。
洸太はその道をまっすぐに歩いた。この先をずっと行くと、山の入り口だ。
頭が痛い。
山がよんでいる。
吸い込まれるような黒さの山を仰ぎ見た瞬間、背後から声がした。
「洸太、」
透明な佇まいの静が立っていた。
「どこいくの。」
眼差しは優しく、同時にどこか戒めるような鋭さがある。
「戻れよ、洸太。」
なにか不思議な呪文でも唱えられたかのように、洸太の身体は自然に静の方へと歩んでいった。
すぐ目の前まで来ると、静は洸太の肩をそっと抱いた。
「お前、」
すぐさま、額に手を当てられる。
「熱があるぞ。早く帰って横になれよ」
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