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日は登り、雨の匂いは濃くなっていく。
暗い家に、灰色の明かりが窓から差し込んでいた。
静は二階の布団をすべて一階の居間に下ろし、そこに洸太を横たえた。
「これでお互い、いつ倒れても転がれるだろ。なぁ洸太、なんか作ってやるよ。お粥でいい?」
「……大丈夫なんすか。料理中に眠くなったら、」
「その時はその時だよ。ほら、寝て待っててよ」
横になる洸太の鼻に、粥を炊く温かな匂いが届く。正直、頭も身体もそこかしこが痛かったので、食事の世話をしてくれるのはありがたかった。
静が看病してくれるのはこれが初めてだ。
体の丈夫さだけが取り柄の洸太には、静の世話をすることはあれどされた記憶はない。
一人キッチンに立つ静の背中が優しく見える。
「一人分でいいっすよ……」
「わかってるよ、いつもの茶碗に一杯でいいだろう」
鍋の中身が一人分、というのは伝わっただろうか。
だがもう、それすらどうでも良くなるぐらいには怠かった。瞼も重い。
寝てしまおうか。そう思った矢先、ガシャンという大きな音がしたので飛び起きた。案の定、静が倒れていた。
幸い、鍋の火はすでに消えていたし、お玉が転がっていた程度で彼も火傷をしている様子はなかった。
食卓には椀に盛った粥が置かれていた。洸太を呼ぶ直前で意識を失ったのだろう。
今度は洸太が静を布団に運んでやった。力が入らないので引きずるような形になった。
息を整えてから、食卓につく。
粥は少し薄味だが出汁がよく効いていて、卵入りで滋味深い。洸太の家は粥といえば塩味で、出汁も卵も入っていなかった。こういうところにその家の特色が出るのだろう。
茶碗一杯分を平らげ、再び布団に戻る。
外の雨は、相変わらずこの家に暗い影を落とし続けている。
静の隣で、洸太もまた目を閉じた。
だが、体中が痛むせいで、寝付けない。
少しずつ体温は上がり、悪寒と痛みが背中を疼かせる。脈打つたびに、こめかみが痛んだ。
息が苦しくて目を開ける。静は涼しい顔で眠り続けていた。
洸太は彼の手を握り、自分の頬に当てた。
ひんやりとして気持ちが良かった。
「……先輩、」
静はぴくりともしない。死と同じくらい深い眠りについている。
穏やかなその寝顔を見ながら、洸太は無性に目の奥が熱くなるのを感じた。
窓を伝う雨のように、涙はとめどなく流れ続けた。
頬に当てた静の指をそっと濡らしていく。
涙を枯らすより先に、洸太に眠りが訪れた。
目を覚ますとすでに外は暗く、家の外は雨音に満ちていた。
携帯を見る。午前三時だ。
半日以上眠っていたらしい。そのせいか、意識がうすらぼんやりとしている。
洸太の隣の布団で、静は死んだように眠っている。気がつくと、食卓の上は整理され、茶碗はもとに戻してあった。
一人で起きた彼が、片付けたのだろう。
――ゴォン、
不意に雨音を割って、奥から山の泣き声が聞こえた。
随分近い。山から鳴っているのかもしれないが、自分の頭の中で鳴っているのかもしれなかった。
泣き声は次第に、連続して響くようになる。
――ゴォン、ゴォン、……
山が近付いてくるような気がした。頭の中が、その音で満たされていく。
泣き声で曖昧になっていく意識の中、洸太は居間に幻覚のようなものを見た。
食卓の向こうに、死んだ祖母が立っている。
――洸太ちゃん、
暗くて顔はよく見えない。いや、顔だけでなく、腕も足も真っ黒で、ほとんど闇に同化していた。
着ていた薄桃色の花柄の服だけが、やけに明るく見える。
――洸太ちゃん、ようけ寝たねぇ、疲れとったの?
「ばあさん、」
祖母はニッカリと笑った。真っ黒な顔の中で、歯だけが白く浮き上がった。
――その人は一緒になってくれはしないよ。もうあきらめて、おいでなさいな。
洸太が布団から出ると祖母は消え、そこにはガランとした食卓と、粥の入ったままの鍋が残されていた。
隣で眠る静のほかは、誰もいない。
時計を確認する。まだ、四時だ。
朝が永遠に来ないような気がした。
雨音は次第に強く、太くなっていく。
――ゴォン。
山は泣き止まない。
意識が酷く混濁していく。
水底から湧き上がるような低い金属音で、山は鳴る。
次第に、身体が、どこか深い水の中に落ちていく感覚で満たされていく。
溶ける。
このまま意識も、体も溶けてしまえばいいと思った。
そうよ、溶けるのよ、という祖母の声がする。
紐のちぎれた風船のように、意識が飛ぶ、その瞬間、
「洸太、」
静の声が聞こえた気がした。
「お前は俺のかわりにはならない。それは笠寺の役目だ」
洸太は目をぱちりと開けた。
朝になっていた。
「先輩、」
呼びかけたが、返事はない。
隣に眠っていたはずの静の姿がなかった。
居間にも、風呂にも、どこにもいない。
玄関にあったはずの彼の靴さえない。
静はこの家から消えた。
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