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山間のホテル〈アンジャベル〉は侘しい佇まいだった。
三階建ての宿舎には人の気配はなく、雨雲の灰色と同化しそうなその姿は、遠目から見ると廃墟のようだ。一階にせりだしたレストラン兼カフェに灯ったオレンジの明かりで、ようやくここが営業中だということがわかった。
東片を車に残し、洸太は笠寺を引きずりながらホテルの扉を開ける。
フロントに現れた二人を見て、ホテルのオーナーである朝子は息を呑み、引きつった声を上げた。
「洸太ちゃん!笠寺さん!」
「あ、あの、朝子おばさん、急にすみません。こいつの部屋どこですか?」
「お二階だけど……大変。お医者を呼んだほうがいい?」
「平気です。ちょっと……寝てるだけです」
朝子は口元に手をあてがい、しきりにあらまぁと言いながら部屋に案内してくれた。
薄暗い廊下は、窓から注がれる灰色の光でぼうっと輝いている。その隅で、青いトルコキキョウが水色の花瓶に活けられて、静かに佇んでいた。花瓶のすぐそばに笠寺の部屋はあった。
「ここよ、」
年季の入った角部屋は狭くかび臭いが、部屋はきれいに整頓されていた。上等な革の旅行かばんが一つ、ベッドの上に無造作に置かれている。
風呂場で濡れた服を脱がせたあと、ベッドに笠寺を横たえた。彼はまだ目覚めない。
「……洸太ちゃん、このお客さんと知り合いなの?」
朝子は不安げに二人を見た。
「ああ、いえ、その……同級生なんですけど、まぁ色々。」
あらそう、というと、朝子は眠る笠寺を一瞥した。彼に目覚める様子がないことを確認し、洸太に寄る。
「笠寺さんね。朝からフラッと出て行っちゃったきりだったの。とりあえず無事でよかったけど……」
「そうだったんですか。……他に、変なところはなかったですか」
そりゃねぇ、と朝子が心配そうに言った。
「来たときから、様子が変だったわ。予約なしで急にここに来て、一週間も泊まりたいって言って……こんな山奥に、こんな若い子が、一週間も何するつもりか、私想像つかなくって。それになんだか怖いくらい身なりがいいし、何か事情があるんじゃないかと思って。
だって笠寺さん、静ちゃんのこと聞くのよ。」
「……どんなことを、」
「仕事ぶりとか、どんな子だったとか、亡くなった日、なにか言ってたかとか……」
探っていたのか。静の軌跡を。
笠寺が?
「まるで、静ちゃんの後追いでもするみたいだった」
洸太は朝子を退室させると、笠寺の眠るベッドの隅に腰掛けた。
童顔の彼は、眠ると余計に幼く見える。
無垢、という、彼には一番に合わない言葉がとっさに浮かんだ。
彼が無垢であるはずがなかった。むしろその対極に位置しているはずだ。知らないほうがいいことを知り、見ないほうがいいものを見てきた男だ。そしてそれを自分の好きに弄ぶことのできるような男なのだ。
おそらく静が笠寺のもとへ行ったのも、笠寺の蛮行を手伝うためだったのだろう。
ベッドの上で、笠寺が寝返りをうつ。苦しそうな声が漏れ出た。悪い夢を見ているらしい。洸太は、彼の目元がうっすらと濡れていることに気がついた。
「……、」
彼と静がどんな関係だったのか、洸太には知る由もなかった。
静は何も言わなかった。笠寺だって、そうだ。
ビジネスとしての信用関係。あるいは友情。
もし万一恋愛関係にあるのだとしたら、嫉妬に狂うと思う。
だがそうだったとしても、今こうして眠る笠寺に、少しも同情を感じないといえば嘘になる。
恐らく、彼もまた、洸太と同じ苦しみを抱えている。
静が彼の何であれ、彼にとって大切な人間をなくしたのは確かだ。
手を伸ばし、瞼に触れ、滲んだ涙を拭ってやる。
彼の口元が静の名前を呟く前に、部屋をあとにした。
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