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生垣の緑の葉が反射するまばゆい光が、ガラス越しに居間へと注ぎ込まれる。深い眠りについた静の身体のうえで、散りばめられた宝石のように輝いていた。
約束の朝が来た。
洸太は台所に立っていた。
湯を沸かし、鴛鴦茶を淹れる。ミルクをたっぷり注いで、彼の好きな味になるように。
カップの中で冷めるのを待って、台所に立ったまま一口、二口と飲んだ。沁みるような甘さだった。
最後のひとくちを含んだあと、静のそばへ歩み寄った。しゃがんで、彼に口づける。
ささやかな餞別だった。
静は眠ったままそれを受け入れた。彼の舌の周りをゆっくりとなぞってやる。
玄関の向こうから古いエンジンの音が聞こえてきた。
迎えの車だ。洸太は唇を離した。
呼び鈴は鳴らない。その必要はないという東片の判断だろう。別れの気配が、家の中に満ちていく。
洸太は眠る静の髪をそっと撫で、その透き通った表情を目に焼き付けてから、玄関に向かった。
「おはようございます。」
玄関の戸の向こう、東片の後ろから強い朝日が差し込んでくる。東片の姿は黒いシルエットとなって洸太の目に届いた。玄関の向こうにあるのは、知らない景色のような気がした。
「お別れは済みましたか?」
洸太は小さく頷く。それを見た東片が、ではでは、と言って、手招きのような動作をした。
衣擦れの音がする。
振り返ると、廊下にぼんやりと佇む静の姿があった。歩く足に力はなく、よろめいて壁際へ倒れそうになるのを、洸太は慌てて支えた。静の身体は軽かった。
狭い玄関で、静と東片が向き合う。東片は何かを確かめるようにじっと静の顔を見つめた。
「よく眠っておられますね。じゃ、」
二本の指を静の額にあて、トントンと叩く。
途端、静の体から細く白い煙が立ち上り始めた。
洸太は思わず彼の体を支えていた手に力をこめた。
込めたところの感触が、次第に柔らかく、弾力をなくしていく。
静の身体は、煙になる。ひんやりと冷たい煙だ。
渦を巻き、ゆらゆらと揺れながら玄関に煙が満ちる。
不意にその一筋が洸太の鼻先を掠め、目の前で静止した。わずかに鴛鴦茶の甘い香りがした。
その一筋はすぐに拡散し、他の煙に紛れて見えなくなった。
「さぁ、」
白い煙の向こうで、東片はいつの間にかごく小さな水色の缶を持って待っていた。
東片の車と同じ色の、美しく装飾の施された缶だった。装飾がなければ骨壷のようにも見える。
彼がその缶の蓋を開けると、煙はその中に、するすると吸い込まれていった。
やがてすべての煙を吸い込んだ缶は、丁寧に蓋を締められ、東片の懐にしまい込まれた。
ふと足元を見ると、玄関に白い紙切れのようなものが残されていた。紫陽花の花だ。静によく似た、凛として白いシチダンカの花弁。
「……、」
拾い上げて東片に差し出すと、
「アァ、これは依り代に使っていたものですよ、」
そう言って形式的に微笑んだ。
「星崎さんの魂を肉体として固定するための小道具です。ふつうは紙なんですけどね。星崎さんはこれがいいって言って聞かなかった。ま、それはもう用済みですから、大高さんのほうで好きにしてください。
――では、わたくしはこれで、」
東片はくるりと踵を返した。彼の態度には、一切の無駄も、情もなかった。この一週間に起こった出来事のすべてが嘘だったかのように。
恐らく、それが彼の仕事人としての礼儀なのだろう。
去ろうとするその彼の上着の裾を、洸太が掴んで引き止める。東片は肩越しにゆっくりと振り返った。
世話になった、
そう伝えたかったが、伝え方がわからなかった。
戸惑う洸太の顔を、東片はじっと見つめ返した。
ややあって口元だけで微笑む。
そらからまた、自分の車に戻っていった。
梅雨晴れの青空の下を、水色のクラウンが駆け抜けていく。山の緑に、水色の点が吸い込まれた。
洸太が瞬きをした瞬間、それは消えてなくなった。
あとにはただ、兎和山の切るほどに淋しい青さの木々ばかりが残されていた。
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