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洸太は居間に戻り、静の寝ていた布団に手のひらを当てた。ほんの少しだけ温かかったが、それだけだった。
この家は、七日前、静がここに来る直前の――そして一年前、静がいなくなった直後の部屋に戻ったのだ。
食卓には彼のために据えた椅子だけが残り、おそらくもう二度と、誰も座らない。
遠くで山の泣き声が聞こえる。
――もう、いいよ。
洸太は二階に上がり、押し入れを開けた。
いくつか積んであるダンボールの一つから、大きなカバンを一つ取り出す。
ここに引越してきた時以来使っていない、革の旅行鞄だ。
その鞄に、適当に選んだ服と下着、身繕いの道具、充電器などを詰め込む。パッキングに慣れていないせいか、鞄はすぐにいっぱいになった。やや体重をかけながら、鞄の口を閉める。
最後に、今朝〈好きにしてくれ〉と言われた白い花弁を紙に挟んで財布にしまい、それをポケットにねじ込んだ。
ガスと戸締りの確認をする。鞄を持って外に出る。
朝の青い光に照らされて、自分の愛車が輝いている。
が、泥跳ねがひどい。一度洗車機に通したほうが良いだろう。
車のトランクに鞄を投げ入れ、洸太はエンジンをかけた。
目的地はない。とりあえず、祖父の兄の家に顔を見せたあと、下関にでも行ってみるか。
ナビに適当な場所を入れると、胸の奥から何かが湧き上がるのを感じた。
ブレーキペダルに足をかけながら、笠寺にメッセージを送る。
『半月ほど旅に出るけど、ついてくるか』
返事はすぐには帰ってこなかった。携帯の音声読み上げ機能の操作に手間取っているのだろう。
洸太には、笠寺の返事がわかっていた。
アクセルを踏み、駐車場を出る。
バックミラーの中で、かつて洸太と静の家だった場所は小さくなっていく。
ハンドルを切り、道を曲がる。
朝子のホテルは、その道をまっすぐ行ったところにあった。
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