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朝方に目覚めた静は、昨晩と比べ、言葉も態度もはっきりしていた。
洸太が仕事の準備をするのを見て、実に不満そうに『え、なに?仕事行くんだ?せっかく恋人が帰ってきたのに?』と洸太をなじるくらいだった。
目眩のような浮遊感を抱えたまま、自分の車に乗り込む。太陽のない、ほの青い朝だった。
意識を拡散させないように注意深くハンドルを握る。
気を抜くと眠ってしまいそうだ。
結局、洸太はほとんど眠れていなかった。家を出る前、静が濃い目にいれたインスタントコーヒーをくれたが、それでもなお頭の奥がぼうっとする。
夢と現実の境のような世界だ。その奥から、洸太はまた、山の泣き声を聞いた。
「浮かん顔やな」
職場である工房の薄暗い給湯室に、祖父の寿史が入ってくる。まるで小言のようにそう言うと、冷蔵庫から麦茶の薬缶を取り出してグラスに注いだ。
薄い扉の向こうから、木材を蒸すためのボイラーの低い音が聞こえる。ときどき蒸気の吹き出す音や、木槌の軽やかな響きが、拍子を取るように鳴り響いた。
「疲れとるんか、」
「あ、いやまぁ、ちょっと」
「きのう帰り遅かったんやろ。花、手向けに行って。寝不足か」
「そんな感じ。」
洸太は自分のグラスに残った麦茶を手持ち無沙汰に揺らしながら、寿史の顔をちらりと窺い見た。
寿史は老年だが未だに筋骨衰えず、家具職人として現役を貫いていた。洸太がここに入った頃から、ずっと指導役としてついている。二人一組で行う曲げ木作業も、彼とペアだ。
彼の技術は年月によって磨きあげられ、工房の長として申し分のない実力と威厳があった。
対して洸太は、経験も才能もこれっぽっちもない。寿史の隣にいると、それが浮き彫りにされるような気がした。
だからというわけではないが、洸太はいつも、休憩時間は一人になるようにしていた。
「あの道も昨晩から閉鎖されてるみたいやな。去年のことがあるからな。気をつけときぃよ」
「うん、」
ステンレスのシンクに水滴が一粒落ちる。会話の途切れた給湯室にその音が遠慮がちに響く。
夢をみているのかもしれない。
どこからが夢なのかはわからないが、静のことも、東片のことも、それらに気をもみながら今こうして祖父とふたりきりで会話しているのも、なんだか現実感がなかった。
洸太はかるく目頭を抑えた。
ふいに寿史が口を開く。
「……聞いたか、」
さっきと変わらない無愛想な声だったが、うつむき加減の表情には、どこか普段にないゆらぎがあった。
「今朝もお山が泣きおった。」
「聞いた、」
「なぁ、昨晩、何か来なかったか」
寿史は、少し離れたところから洸太の目を真っ直ぐに見つめていた。薄暗い部屋の中、瞳だけが鋭く光る。
「……来てないよ、」
洸太は嘘をついた。
「そうか。……今は山が怒ってる。もし、」
昨日と同じことを言うつもりなのだろう。
「じいさん、もうやめろよ。俺は大丈夫だよ。先輩がいなくてもちゃんとやってるよ。連れてかれたりなんかしない。ばあさんとは違う」
寿史はしばらく洸太のことを見つめていたが、しばらくして「わかった、」と言うと、のそりと歩いて部屋の扉に手をかけた。
「気をつけろよ。弱い人間が、一番に連れていかれる。身内をなくしたやつなんかが危ないんだ」
給湯室の扉を寿史が開けると、機械音がどっと部屋に押し寄せてきた。低く、多少の振動を伴うこの音が、どこか土砂の流れる音にも似て聞こえた。
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