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2話
花と水が美しい大陸の国、華弥国。この国の皇帝は年若くありながら才溢れた賢帝と名高く、その名声は他国にまで轟くほどでありました。
しかし一つ、困った悪癖に家臣達は頭を悩ませていたのです。皇帝は所謂『少年趣味』という性癖を持っており、婚礼適齢期であるにも関わらず妃を迎え入れる事もなく、一人の少年を側に置いて日がな愛でているのでした。
……というのは国が落ち着くまで皇帝が家臣を欺く為に植え付けた嘘で、その蓋を開ければとある少女に少年のふりをさせて、家臣を欺く手伝いをさせているに過ぎないのです。
──これは、少女であることを隠した少年に初潮が訪れる、少しだけ前の話。
「陛下。お待たせ致しました」
晴れた午後に赴く庭園の東屋は、涼しい風が吹き流れる皇帝にとっては数少ない安らげる場所の一つである。午前の執務を終え、昼食を摂った後にこの東屋でお茶を飲むのが日課である皇帝は、毎度お茶を淹れる役目を側仕えである翠(すい)に任せていた。少年を装っている少女は、いつも通り花びらの入ったお茶を玻璃製の茶器に注ぎながら、ちょうどいい量でピタリと止める。
「ふむ、茶を淹れるの上手くなったな」
「恐れいります」
既に毒見済みのそれを傾ければ、温かいお茶であるのに喉を通る感覚はどこか涼しかった。水につけるとスッとする効果のある葉が配合されているようだ。しかし皇帝の興味はそちらではなく、翠の操った言葉の方にあるようである。
「いつのまにかお前、随分と行儀の良い言葉を使うようになったものだな」
ははは、と笑った皇帝に対して、翠はただでさえ細い目をより細くした。これが翠のできる限りの皇帝に対する抗議の姿勢なのだ。これ以上のものは、否これも既に不敬と取られたら終いだが、この程度の反応ならば皇帝は戯れと取る。翠は茶器と揃いの玻璃製の器に入った琥珀糖を摘んで口に運ぶ皇帝の側に控えながら、不意に背後から吹いてきた爽やかな風の方へと目を向けた。庭園の端、皇帝の宮からは見えないように、それでも近くに建てられていた小さな小さな宮は、かつてこの王宮に来たばかりの頃に翠がよく出入りを命ぜられていた場所なのである。
「生きる為には仕方がなかったので」
皮肉を込めて言った翠だったが、そもそも翠がこの場所にいられるのは皇帝の恐ろしい程の気まぐれと、翠自身が幼い頃から強制的に培ってきた、実体験を元にした知識や経験のおかげである。森の中から一枚の木の葉を見つけ出すくらいの確率で、翠は今こうして丁寧に動くようになった舌で話し、皇帝に茶を注ぐような立場になっている。
「そうだな」
お前のおかげでお祖母様も楽しい時間を過ごせただろうさ。と付け加えた皇帝の言葉に、不意に翠は泣きたくなった。あの頃の自分が今ほどの教養を身につけていれば、皇帝の祖母である太皇太后も楽しかったのではないか。当時は毛程も気にしなかった事が、今になってひしひしと気になってしまう。
「翠よ。お前、どうせ今くらい教養があればお祖母様の話し相手としてもっと楽しませられたのではないか、なんて思っているのではないか?」
一口茶を啜って、琥珀糖を口にした皇帝が翠の方を見ずに言った。まさか思考を正確に的中されるとは思わなくて翠が固まっていると、東屋に皇帝の若草めいた笑い声が舞った。まだ年若い皇帝とはいえ既に結婚適齢期であるこの人は、声だけ聞くと実年齢よりも若い。低すぎず、かと言って軽くもない声は玉座で聞くと透き通ったように響き渡る。
「……」
「阿呆め。お前の考えなどお見通しだ。あの時のお祖母様にとっては、きっとこの王宮の誰よりもお前の話し方が身に馴染んだのだ。元々騎馬民族の出身だと聞いてはいたものの、随分と剛毅な姫君だったようだしなぁ。我がお祖母様は」
翠はふと、一人の老婆を思い出した。随分前に鬼籍に入ってしまった皇帝の祖母、太皇太后である。彼女の話し相手が、死を眼前にした翠に与えられた、王宮での最初の仕事だった。
孤児院の為に王宮の蔵に盗みに入った際、翠はその場で有無を言わさず斬首の刑にされる所だった。最後に金も食事も満足に無く、こうして王宮に盗みに入るくらい追い詰められている孤児院の酷い実情を叫んで死んでやろうと思った矢先、自分よりも悲痛な悲鳴をあげた老婆が翠達のところまでよたよたと歩いて来たのだ。
それは歳を召したせいですっかり自身の事がわからなくなってしまった、太皇太后。皇帝の祖母だった。今まさに翠が斬首されそうな場所で、家に帰るんだと騒ぎ立てながら侍女たちに手を振り回して威嚇する太皇太后に一旦武官たちは剣を納め、すっかりと正気を失ったような目の太皇太后を遠巻きに見つめ、侍女たちは必死に押さえ込もうとしていた。
「太皇太后様! どこに行かれるのですか?! 陛下のお家はここでございます!」
「ちがう! こんなところじゃない! あたし、家に帰るの!」
泣き叫ぶ老婆に、もはや不敬とも取れそうな発言や行動を繰り返しながら静止しようとする侍女にため息を吐いた、当時は翠蓮という名だった翠は、近くで自分が逃げないように押さえつけていた武官に言った。
「あのさぁ、あんたら馬鹿じゃねぇの?あんな言い方であのばあさんが大人しくなると思ってる?」
「貴様! 不敬だぞ!」
「どうせ殺されるんだから不敬にもなるだろ。任せなよ。孤児院にはさ、ああいう風になっちまったじいさんばあさんがごっそり送られてくるんだ。こっちの方が扱い上手いと思うけど」
あの頃の街の孤児院には、孤児達の面倒を見るという名目で家族の顔すら分からなくなってしまった老人達が送られて来ていた。孤児達は逆に老人達の世話をしながら、時折話が通る彼らに言葉や算術、昔の知恵を教えてもらっていたのだ。中には自身で食事も取れない老人たちの世話をしたり、ふとした時に暴力的になる者を言葉巧みに誘導し、落ち着かせたりもしていたのである。
「そんな事許されるわけないだろう。黙っていろ」
「いいんじゃないか?やってもらえ」
「陛下!」
「ここにいる誰もが止められないなら止めてもらった方がいいだろう」
そこに登場したのが、祖母の様子を見に来た皇帝だった。翠を斬首しようとした一団と、太皇太后を追って来た一団で既に王宮の隅の隅は人でごった返す。翠は武官から無遠慮にも武器を持ってないことを調べられ、後ろ手に手を縛られたまま太皇太后に声が届く位置まで来させられると、恐怖からか澱んだ瞳の老婆に翠はそっと声をかけた。
「どうしたんだ?」
「あたし、家に帰るの!こんなわけがわからない所にいられるわけないでしょう」
「そうかそうか。わかるよ。ここ、怖いもんなぁ」
「そうなの。怖い」
「でも大丈夫だよ。みんな怖い人に見えるけどあんたが困ってるから助けに来ただけなんだって」
「……そう?」
一瞬、太皇太后の目がきょとんと小さくなった。翠は大きく頷いて、肩をぽんぽんと叩いてやる。
「そう。だって女の人がこんな所に一人じゃ危ないだろ?歳はいくつだ?」
「……あたし、16なの」
周囲が微かにどよめく。目の前の老婆は自身のことを16歳と言った。実年齢はとっくに80近いはずである。侍女が太皇太后が狂ったとさめざめ泣くが、翠はにっこり微笑んで言う。
「そうか。若い姉さんがこんな所にいたら危ないよ。馬車ももう終いの時間だ。今日はここに宿をとりなよ。部屋余ってるんだろ?」
な?と翠は皇帝に言うと、彼は黙って頷いた。
「ほら、な?この兄ちゃんだって言ってる。部屋に案内してもらおうぜ」
「馬は、乗って来た馬は大丈夫かしら」
「あんたの馬は丁寧に預かってるってさ。立派な馬だもんな」
「そうなの。ずっと一緒なのよ」
「遠乗りして疲れてそうだったから、やっぱりここで休んだ方がいいよ」
「そうね。確かにそうだわ。坊ちゃん、親切にありがとう」
「いいよ」
本当は翠は女だったが、そこは言及しない。相手がそう思ってるなら乗るのが定石である。あれだけ暴れていた老婆はすんなり落ち着くと、侍女に手を引かれて自身の宮に戻っていった。
「驚いたな」
太皇太后が去り、皇帝が一言呟いた瞬間、翠は再び地面に押しつけられた。口の中が砂利に塗れたが、すぐに切り離されるであろう首と胴体のことを考えると、もうどうでもよかった。
「陛下。こんな下賤なもの目に入れてはなりません」
武官が翠と皇帝の間に割って入る。が、皇帝はその武官を押し退け、しゃがみ込んで翠を見た。
「なぁ、孤児院にはあのようになってしまった老人が沢山いるのか?」
「陛下!」
武官が叫ぶ。が、皇帝はそれを煩わしそうに見てからなおも翠に声をかけた。
「うるさいな。俺は気になるんだ。なぁがきんちょ。答えろ」
「……そうだよ。大人たちは仕事で昼間どっかふらふらしちまうじいさんばあさん見てられねぇだろ。だから俺たちの子守りって名目で世話を押し付けてくるんだ」
「あの症状はなぜ起こる?」
「知らねぇよ。でも狂ってなんかない。じいさんもばあさんも若い頃のことはよく覚えてる。俺たちに文字や算術を教えてくれたりする人もいるからな。ただたまに自分がいくつなのか忘れちまう人もいるんだ。そういう時は話を合わせてやればいい。ここが家だと思ってないのに知らねぇやつからここは家だなんて言われて、混乱しないわけないだろ」
翠がいつもの口調で話すと、武官は苛立ちと共に声を荒げた。落ちていた小石に頬が刺さり、痛い。
「皇帝陛下の御前だぞ! 言葉遣いに気をつけろ!」
「だからうるさい。俺はこのがきんちょと話してるんだ。俺がかがまなきゃいけないんだから、押さえつけるのやめろ」
とうとう苛立ちが募った皇帝が、翠の腕を掴む。慌てたのは武官達だが、翠はもう死ぬ身だと皇帝を細い目で睨むだけだ。
「いくつかわからなくなる。なるほど、だからお前は先ほどお祖母様を若い女性として扱ったのか」
「そうだよ。本人が16って言うんならあの婆さんは今16歳だ。16歳から太皇太后ってやつでもねぇだろ。知らねぇ肩書きで呼ばれて振り返るかよ。ばあさんが16歳で、馬に乗ってきたって言うんならその通りに会話を合わせてあげればいいんだ」
「確かに。納得した」
お前、使えるな。そう言って皇帝は翠を指差した。
「懐かしいなぁ。今の丁寧な話し方も好きだが、俺はあの頃の汚い話し方のお前も好きだぞ」
鷹揚に笑って、皇帝はまたお茶を飲んだ。だんだん皇帝の好みの濃さを理解している翠の淹れたものが、今の所1番飲みやすい。
「あの話し方を今したら、女官長に折檻されます」
「ははは、そうだろうな。不敬も不敬だ。一晩欄干に吊るされるだろうな」
「はい」
ほら、と皇帝が琥珀糖をつまみ、翠に差し出した。翠は膝をついてそれを受け取ろうと手を出したが、皇帝はその手を素通りして、翠の口に直接琥珀糖を入れる。ついでに唇の端についた砂糖のかけらを指で拭えば翠は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに察してにこりと微笑んだ。視界の端に、高官達がこちらを窺い見ているのが映ったのだ。翠は皇帝が少年趣味だと周囲に思わせる為に死ぬはずだった身を預かられているのだから、任務は全うしなければならない。
「今夜もゆっくり寝られそうだな」
「はい」
演技ではあるが、皇帝がぐっすり眠ることだけは事実だ。翠は一つ頷いて、彼の手がずいぶんと指通りの良くなった自身の髪に降りてくるのを待った。
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