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拝啓、風がすっかり秋らしくなり月が美しい季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
秋の月を見るとつい君を思い出します。柔らかく穏やかな、けれど眩しいくらいの笑顔で私を出迎えてくれた君の笑顔が目に浮かぶのです。
私は今日も変わりなく、君がよく掃除してくれた書斎でこうして手紙を書いております。ただあの頃と違って、机に花壇のスミレが一輪活けられていることはなくなりました。あれは君が掃除をしてくれた時だけしてくれていたのだという事に、君がいなくなってから気が付いたよ。我ながら恥ずかしい限りだ。
この屋敷であんなにも幸福が得られる場所が存在する事を君が教えてくれた。君だけだ。
けれどそれももう無くなってしまった。私が手放してしまったのだから仕方がないのだけれど。出来るならずっと君を側に置いておきたかったのに、ふがいない私を許して欲しい。
嗚呼願わくば、君がこの手紙を未だ読めませんように。君が文字を教わりたいと甘えられるほど親密な人間など、私以外には現れませんように。
敬具
「……読めない」
小里(こさと)は眉間にしわを寄せながら、今し方自分宛に届いた手紙に踊る文字を睨みつけるように見た。実家がとても貧しく、弟も妹も沢山いた小里ゆえ、幼い頃から奉公に出ていた彼女は文字を読む術を学ばず生きていた。文字が読めなくてもメイドの仕事をすることは出来る。親戚の更に親戚のツテを辿って、小里はとある屋敷でメイドをしていた。しかしつい先日その屋敷を解雇されてしまい、新たな屋敷でメイドの仕事を始めたばかりなのである。
「……スミレ?」
文章の中、かろうじてだが読めるカタカナを拾い上げて、小里は首を傾げた。買い物の時書き付けを持って行く為にカタカナだけは読めるようになれと執事に言われても、学ぶ術を知らず困り果てていた小里に、前の屋敷の若様が教えてくれたのだ。
それから、屋敷に住んでいた主人達の名前は何となくではあるが読めるように教わった。届いた手紙を分ける仕事もしていたからである。なのでこの手紙が主人の嫡男、今は若くしてあの屋敷の当主を勤める彰斗(あきと)が書いたものということも、小里には分かっていた。封筒の裏側に『田形(たぐち)彰斗』と書かれていたからである。
しかし内容に関しては小里には難しい漢字ばかり使われていて読むことが出来ない。かろうじて一カ所だけカタカナでかかれていたスミレという単語は拾うことはできたが、それ以外は全く理解出来なかった。
しかし、そんな読めない手紙も小里の胸を温かくするには十分だった。スミレは以前、田形の家にいた頃彰斗の書斎を掃除した時こっそり小里が活けていたものだったのだ。きっとそれに気が付いてくれたに違いない。
「彰斗様ったら、今になって気付いてくださって、その為だけにお手紙くれたのかしら?」
小里は首を傾げながら、その手紙をそっと小さなビスケットの缶にしまいこんだ。田形家を解雇されて以来、彰斗から読めない手紙が来るのは初めてではなかった。既にビスケットの缶の中には数通手紙が入っている。 けれどどの手紙も読めないまま、数文字のカタカナだけを読むにしか至っていなかった。
というのも、どの手紙も赤いインクで始めにこう書かれていたのだ。
『ダレニモミセテハナラナイ』
誰にも見せてはならない。そう書かれてしまっては、元主人といえど小里は従う以外の道を知らなかった。解雇されてしまったといえど、急病で亡くなった先代の代わりに若くして武門の名門である田形家を継いだ彰斗の命令は守らなければと思ったのである。
小里は二枚の便せんを丁寧に封筒に入れ直してから、使用人用にあてがわれている部屋を出た。以前の屋敷よりも狭い部屋だけれど、小里にとっては十分な広さだった。そも、屋敷の大きさも働いている使用人の人数もまるで違うのだから、当たり前なのだろう。
今日は庭の草むしりと花壇の手入れをするよう命じられている。小里が今働かせてもらっている屋敷は田形家の遠縁の、老婦人が一人で住んでいる屋敷だった。十一の頃から五年も奉公をしていた田形家を突如解雇され酷く悲しい思いをしたが、きっと何か粗相をしたのだろうと自分の不出来を恥じた。新しい奉公先を用意してもらえたのは、きっと長年勤めたがゆえの温情なのだろうと思い直し、今の主人には今以上に誠心誠意勤めているつもりだ。でないと、実家に仕送りが出来なくなってしまう。
「小里、また手紙が届いたの?」
そう小里に声を掛けて来たのは、小里と同じ部屋で寝起きをする先輩メイドの春子だった。歳はほとんど変わらないけれど古株の春子と生活を共にすることでこの屋敷に慣れなさいという、主人の配慮である。
「はい。相変わらず書いてあること、ほとんどわからないのですけど……」
えへへ、自分の浅学を恥じるように小里が笑えば春子はひょい、と小里に向かって手を出した。
「もしよかったら手紙、読んであげましょうか?私女学校に通っていたこともあったし、読めると思うわ」
まぁ、通えたのは途中までなんだけどね。と自嘲する彼女には丁寧に礼を言ってから辞退した。なぜなら彰斗はこの手紙を誰にも見せてはいけないと言っている。彰斗が言うのだから、小里は守らなければならない。否、守りたい。
小里の初恋は、紛れもなく彰斗だった。歳も四つしか変わらないのに小里とは違う生き物であるように才気煥発で、才色兼備な田形家の次期当主だった彼は、小里のような末端のメイドにも大層優しくしてくれた。カタカナを読む勉強もこっそりと彰斗が教えてくれたり、余ったお菓子を分けてくれたりした。
買い物の荷物持ちを命じられたと思ったら帯留めを買ってくれたこともあった。そんな風にしてくれる異性はもちろん小里の周りには彰斗しかいなくて、そんな優しい彰斗には年若いメイドの誰もが恋をしていたように思う。けれど皆それを表に出すことはなかったし、小里だってそんな素振りを出すことはなかった。身分不相応も甚だしいことくらい、学のない小里でもわかることだったからだ。
「そう?気が変わったら教えてね。あの田形家の若様がメイドのあなたに送ってくる手紙なんて、私ほんの少し興味あるもの」
「見せないよ。そういうご命令なんです」
「わかったわかった」
くすぐったそうに笑った春子と一緒に庭の草むしりをやる内に、小里は手紙の事をほんの少し忘れられた。
初恋の人からたとえ内容がわからなくても手紙がくるなんて、色恋に疎い小里ですら心臓が逸ってしまう。彰斗様は何がしたいのでしょう。と憤りたくなるような気持ちも仕事に没頭してるする事で庭の雑草と一緒に小里の心の中から引っこ抜く事ができた。
そう、もしかしたら叱責や悪態の手紙である可能性だってある。突如彰斗の母である大奥方より解雇を告げられた小里に対する非難が綴ってあるのだとしたら、悲しくて辛いだけだ。
けれどいいえ。と小里は首を振って悪い考えを頭から消し去った。彰斗様はスミレの事を書いてくださった。あれが私の用意したものだと気が付いてくださったに違いない。と、前向きに考える。ビスケットの缶の中身は、彰斗の温情だが入っているのだと、小里は信じて疑わなかったのである。
拝啓 すっかりと風が冷たくなり、温もり恋しい季節が近づいて参りましたがいかがお過ごしでしょうか。君は風邪なんてあまり引かないからそこは心配ではないけれど、寒さは厳しくなるばかりです。きちんと温かい部屋で眠れていることを祈ります。
冬になると、君と街に出かけにいった事を思い出すよ。荷物持ちをしろだなんて最低な言い訳をして屋敷から連れ出した私に君は笑って付いてきてきてくれたのが嬉しくて、あの日私は始終浮かれていた。君には気づかれてしまっていただろうか。
あの時買った帯留め、まだ使ってくれていると嬉しい。食いしん坊な君だから、おまけで買ってあげたビスケットの方が記憶に残っていそうだね。絵柄がかわいいととても喜んでいた缶の入れ物は、小物入れにでもしているのだろうか。私自身でそれを確認したい。君に会って、帯留めも缶も残っていますと笑顔で聞きたい。
君に会いたくて気が狂いそうな私だけれど、これは私に対する罰だ。君が解雇になったのは、君に非は何もない。母に君を娶りたいと言ったせいなのを、きっと君は知らないだろう。
嗚呼願わくば、君がこの手紙を未だ読めませんように。君に文字を教えるくらい親密な人間など、私以外に現れませんように。
敬具
「……ビスケット!」
小里は届いた手紙のカタカナの部分を読んで、楽しそうに声を上げた。そう、覚えている。冬の寒い日に買ってもらった帯留めと、それからビスケット。缶の絵柄が可愛くて、その缶は彰斗からの手紙をしまう大事なもの入れになっている。きっとその時のビスケットのことを言っているのだと小里ははしゃいだ声を上げた。
嬉しい。きっと憶えていてくれたんだ。と思えば思うほど彰斗の顔を見たくなる。お元気にしているだろうか。寒くなってきたし、風邪を引いてはいないかと心配だが、あの屋敷には沢山の使用人がいて、健康管理もしっかりしている。彰斗自身も自己管理が上手な人だ。きっと大丈夫だろう。
小里は読めない文章を、インクにをくすぐるようにすっと指でなぞった。あの忙しい彰斗が自分の為に時間を使って手紙を書いてくれたのだと思うと、たとえこの手紙の内容がよくないものだとしても嬉しくて涙さえこぼれ落ちそうになる。
「読めるように、なりたいなぁ」
部屋で一人、ぽつりと呟いた。学校に行くことは出来ないので、仕事をしながら独学で学ぶしかない。全ての文字を読めるようになるのは難しくても、少しならば読めるようになれないだろうかと小里は思案する。カタカナが使われている辺りの一文だけでも読めれば、それだけで小里は幸せだ。
「どうしたらいいんだろう。本を買うしか……ううん、仕送りがあるし」
そう部屋で呟いていたら、小里の部屋をノックする音が聞こえた。春子だ。
「そろそろ昨日の花壇の続き、やりましょう」
「はい」
「また手紙が来たの?田形様から?」
「うん。……あ、そうだ!」
そこで小里は思い出す。春子は女学校に行っていたと言っていたではないか。彼女に仕事の隙間で、ほんの少しでも教えてもらえないだろうかと思ったのだ。
「ねぇ春子さん。時間がある時だけでいいんです。私に字を教えてくれませんか?」
「字? いいけど……あ、もしかして読みたくなったのね」
春子は小里の手元を見た。彼女の手にはいつもの封筒がある。大体二ヶ月に一度くらいの頻度で来るその手紙の内容は、春子でさえ気になって気になって仕方がないものなのだ。名門田形の家の若きご当主。まだ彼が若様だった頃、春子のいた女学校でも時折彼の名前が挙がっていた。一体どこのお嬢様が彼に嫁ぐのだろうと、噂話の的だった。そんな人から一介のメイドに手紙が届くなんて、もし女学校の元級友たちに言ったらどれだけ華やぐことだろう。
「はい。時間が掛かっても自分で読めるようになりたいと思って……あの、本当に手が空いた時でいいのですが」
「いいわよ。私も内容気になるし、教えるからにはちゃんと読めるようになってよね」
「ありがとうございます春子さん! 」
にっこりと笑う小里の笑顔は素朴でかわいらしいとは思うけれど、やはり田形家の当主の隣に並ぶにしては何もかもが足りない。そんな子になぜ手紙が届くのか、春子は知りたくて知りたくて仕方がなかった。何度も読んであげると申し出たのは、春子自身も内容が知りたかったからである。
「じゃあほら、早く手紙しまって。もう休憩が終わるわ」
「今行きます」
花壇に行きましょう!l と小里は自身の部屋に春子を残して出て行ってしまった。相変わらず、少しだけ抜けている。と少し笑って春子は小里の部屋を出ようとした時、
「……」
ビスケットの缶が春子の目に入った。かわいらしい柄の、いつも小里が彰斗からの手紙をしまっている、あの缶だ。
春子は小里が部屋に戻ってこないことを、まず扉を薄く開けて確認した。影はおろか、足音すら聞こえない。
「……」
そっと、春子は缶に近づいた。音を立てないよう、慎重に缶を開ける。
中には先ほど小里が持っていた手紙が封筒入って納められていた。一番上にある手紙を静かに封筒から抜き、便せんの一枚を静かに静かに開く。そうしてヘタリと、思わず座り込んでしまった。後悔したのだ。人の秘密を知ってしまった、大きな大きな罪悪感で、立っていられなくなった。
「なにこれ。どういうこと……?」
春子はなぜ小里が田形の家から解雇になったかを知ってしまった。なぜ結婚適齢期の田形家当主、田形彰斗が誰とも結婚をしないのかを知ってしまった。こんな小さな屋敷の、部屋の片隅で。
きっとまた、彼から小里には読めない恋文が届くのだろう。自身の恋の成就は諦めたくせに、小里が手紙を読めるようになりませんようにと未だ彼女への執着が拭いきれない若き当主がこうして未練を綴った恋文が、何も知らない彼女へまたいつか、届くのだろう。
どんな顔をして小里に文字を教えればいいか。もう春子にはわからない。
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