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それは自動運転のようだった。恥ずかしくなって、だけどせっかくならと一番前の席に乗り込む。
まるで自分が運転手になったみたいな気分で電車は進んでいく。
テレビの中の映像でしか観たことがない景色を見て、お父さんはいつもこんな風景を見ているのかと不思議な気持ちになった。たったこれだけでもお父さんへの十年の壁が少しだけ薄くなった気がした。
しばらくするとリッチモンドと言う駅に着いた。駅前には大きな建物があった。ここはショッピングモールらしい。明日お父さんが連れて行ってくれる予定だ。
さて、問題はここからだった。
電車はともかく、私はこれからバスに乗らなければいけない。バスの行き先はメール、手帳、ノートとトリプルで保存したから大丈夫だけど、果たして乗れるのか……。
私は辺りを見渡した。
うん、バス停らしきものがいくつもある。
とりあえず直ぐそばにあるバス停を見る。書いてある事はちんぷんかんぷんだけど、バスの行き先の番号が違うから多分これじゃない。
道路を渡って向かいのバス停に行ってみる。
後ろから、シャーッと言うスケボーを走らせる音が聞こえた。道を譲ろうと後ろを振り向く。
スケボーに乗った青年は、両手に松葉杖をついてスケボーを走らせて颯爽と私を追い抜いていった。
私はフリーズした。
まって、今の何? 普通、足を怪我した時に松葉杖を使うよね? えっ何だろう、陸上スキー的な? 警察に怒られたりしないのかな?
沢山のハテナが渦巻いて、眠さと疲れと緊張から、私の脳は松葉杖の青年について考えることを放棄した。
これが異国か、と自分を納得させて今のは見なかったことにした。
さあ、バス停を探そう。
十五分経っても案の定、バス停が見つからない。というかバス停が幾つかあってどれがどのバスに乗れるのか分からないのだ。
バス停を探していると、こちらへ歩いてきたグレーヘアのおばさんと目があった。
「Can I help you?」
「えっ、えっとバス。ディス、バス。アイウォント」
手帳に書いたバスの名前を指差すとおばさんは何やら説明した後手招きをした。着いていくと、そこにはさっきまで気づかなかったバス停があって、数人並んでいた。
「センキュー、センキュー」
私は頭をぺこぺこ下げる。
「Have a nice trp!」
おばさんはにこりと笑うと去っていった。
私は、胸がドキドキしていた。
これが、異国で触れる人の優しさと言うものか。
私はバスに乗り込むと一安心した。なんたって五つ目の停留所で降りればいい。数を数え間違えなきゃいいのだから。それくらい、英語が出来なくてもやれる。
バスは発車した。シートはツルツルしていて、走行の揺れでずり落ちそうになる。
窓の外に目をやると、英語の看板や、中国語の看板が目につく。アジア系が多いのかな? お父さんに聞いてみよう。
バスが目的地に向かう一秒一秒が、お父さんに近づいてくる時間と比例してドキドキしてきた。
ふいにバスが止まった。信号でもない、道の端で。
前方を見ると運転手さんがシートベルトを外して、自分の椅子のリクライニングの角度を変えていた。それも何度も微調整して。
車内を見渡してもイライラする人は一人も居なかった。
こ、これも異国か。
五分ほどしてバスは何も無かったかのように再び走り出した。
さあ、あと五つバス停を数えるだけ。
私はふと見上げた車内の電光掲示板を見て唖然とした。
壊れている。
と、言うか画面が真っ暗で機能していなかった。
落ち着け、私。バス停の名前は暗記した。だからヒアリングでなんとか行けるはず。
「Next ……」
バスのアナウンスはガタゴトと言う走行音にかき消されて重要な部分が聞き取れない。と、いうかアナウンスの音声が小さすぎる気がする。
これって最大のピンチでは?
体中から汗だけが出て、頭が回らない。どうする? お父さんに電話? でも今日はリモート会議って言ってたな。電話繋がるかな。
と、いうかもし知らないバス停で降りたらその場所をなんて説明すればいいの? バス停の名前、読めるかな。 え? やばい?
もしかして詰んだ?
「Are you ok?」
隣に座っていた金髪のお兄さんが声をかけてくれた。
「え、えっと。バスストップのネームが……」
テンパりすぎて日本語と英語がごちゃ混ぜになる。
お兄さんは私の手元を指差した。手にしていた手帳に、私は降りるバス停の名前も書いていたのだった。
「イエス、イエス!」
お兄さんは何やらしゃべると車内に張り巡らされた紐(!)を引っ張った。
バスが止まり、お兄さんがジェスチャーで促す。
「せ、センキュー」
私は少し涙目でお辞儀をして降りる。
外国の映画みたいに木が生え揃った住宅街に、年賀状で見慣れた顔を見た時、本当に涙が溢れそうになった。
「お父さん!」
「楓、久しぶり。ようこそカナダへ」
お父さんは両手を広げた。私はそこに駆け寄って、両の手をグーにして腕を振る。
「もう! バス停まで迎えに来れるなら空港まで来てくれればよかったのに! 聞いてよ。皆んなマスクしてないし、電車は無人運転でビックリだし、バス停を探してテンパるし、謎のスケボーの青年はいるし、バスは呑気に止まるし、バスの案内表示は壊れてるし、降りる時はボタンじゃなくてなぜか紐を引っ張るし」
お父さんは行き場の無くした手を頭に当てて掻いた。
「ごめんね、言っておけば良かったね。青年の事はよく分からないけど」
「お父さんって、そーゆーところあったよね。こっちの気も知らないで、のほほんとして、それで、それで」
「ごめんね。初めての海外だったんだろう? 嫌な思い出にさせちゃったかな」
「でも、皆んな親切だった」
そう言って私はお父さんに、抱きついた。
「会いたかったよ。……ずっと」
記憶の片隅にあった懐かしいタバコの匂い。
やっと私は、会いたい人に会えたんだと思って一粒涙を流した。
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