第1章 Seed《種》1

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第1章 Seed《種》1

「やだなあ…」  リリアスは家まで続く森の小道をとぼとぼ歩いていた。  渡されたばかりの新学期カリキュラム表をどんよりした気持ちで開く。  医科大学に入学してから最初の二年間は『薬学基礎知識』だの『脳と行動原理』だのふわっとした名前の座学が中心だったからまだよかったのに、三年に上がった途端解剖学やら手術のオンパレードで、どれもこれも授業名の最後に『臨床』とわざわざ太字で記載されている。  さあいよいよ逃げられない。  リリアスは地面を震わせそうな深いため息を吐く。  内臓系の肉はどれひとつとして気持ち悪くて食べれないし先端恐怖症でメスを直視できない。  そして苦手なもの第一位、血液。  トマトジュースでもケチャップでも、ちょっとでも血を連想させてしまうような赤い液体を見ただけで吐きそうになるくらい不得意だ。  向いてない。つくづく向いてない。  こんなに医者に不適合な人間がなぜ医大なんかに通わされているかというと、答えは至ってシンプル。両親含め親戚一同が揃いも揃って人族医の医者家系だからだ。ここを卒業すればインターンを終え数年武者修行にかり出された後、実家のヨーゲン州でゆくゆくは病院を継がされる。  運命があるとすれば、最強についてない星の下に生まれてしまったと思う。  インターンの年になったらせめて全力で内科を志願しよう。  外科だけは何が何でもごめんこうむる。  毛先が四方へうねる金髪の頭をわさわさとかきむしりながら、持っていたカリキュラムを鞄に再びねじ込んだ。雑木がうっそうと茂る獣道で、野花を摘みながら進む。  草花の花束を作りながら帰ることが今のところ唯一の癒やしだった。  道なき道にはところどころラッパ水仙が元気に咲き誇っていて、春を感じさせた。人族の臓物より草木の方がよっぽど興味ある。  本当は医者になんかならないで植物を育てていたいのに。  もし生まれ変わって花屋ができるならどんな外観の店にしようかな、という叶わない妄想が品揃えにさしかかったところ、数十メートル先の茂みで人間の唸るような声がした。 「え?」  聞き間違いかと足を止めて耳を澄ませてみる。すると、粗い息づかいがかすかに茂みの中から聞こえてくる。リリアスは用心しながら一歩一歩雑草をかきわけた。 「あのーそちらに誰かいますかー…? 幽霊ですかー…? …わあっ!」  倒れていたのは裸の、人間の男だった。  露出している筋肉は筋肉模型のように贅肉ひとつなく、引き締まっていた。体格も大柄だ、立つとおそらく百九十センチはあるだろう。髪は薄い茶色だが俯いていて顔が確認できない。そして右脚はかなり出血している。  途端にぐらっと強い目眩が起きた。男の周りの土や草が血で染まっていたからだ。 「だっ、だいじょうぶですか!」 「…っ…」  いくら落第すれすれとはいえ自分も医学を学ぶ者の端くれ。負傷者を放っておけるわけがなく、なるべく血を視界に入れず駆け寄った。  意識はあるようだが早く傷口を閉じなくてはいけない。 「い、今すぐ誰か呼びますんで、気をしっかり…!」  リリアスに応えるように大きく男が息を吸ったその時、むきだしの皮膚からぶわっと茶色い毛が生い茂った。体積は三倍に盛り上がり、瞬きを二度打つうちにみるみる男は熊の姿に変化した。 「やあ、お嬢ちゃん…こんなところでお花摘みか…」  そして熊が、喋った。 「じゅ、獣族…っ…!」  リリアスの生まれ育ったこの国、HN連合国には現在、人族(Human)と獣族(Newman)の二種類の人間が国籍を得て暮らしている。  人族は人型から変化しない種族の人間、そして獣族はその名の通り獣に変化できる肉体を持つ人種だ。  獣族を今までほとんど目にしたことがなかったリリアスは、恐怖で震え上がりながら後ずさった。  そして幼稚園のころ、大人たちから口酸っぱく言われてきたことを思い出した。 『獣族を見かけても近づいてはいけません』  獣族は危ない種族とされており、人族に比べ知性が低く、理性的に考える回路が備わっておらず人族を襲ってくることがあるという。ただでさえ野蛮な獣族、しかも相手は死の淵であるクマ科だ。何をするかわからない。 「ぎゃーっっ!」  リリアスはくるっときびすを返すと、全速力で森を走り抜けた。
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