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ワヤン・クリ1
昼間だというのに薄暗いのは、窓を塞ぐように幾何学模様が織り込まれた布が掛けられているせいなのだろう。
店内を照らす光は、店のあちらこちらに置かれたキャンドルのほのかな明かりのみ。インドネシアの影絵芝居――ワヤン・クリに使われる人形が透かし彫りにされた、金属製のキャンドルスタンド。そこから零れ落ちる明かりが、光と影の物語に誘いこまんとするかのように揺らめいている。
グンデルが奏でるガムランの浮遊感のある音が、空間の中で互いの音をぶつけ合い共鳴する。絶えず鳴り響く音があるのに、ガムランに身を浸すと世の中の喧騒から切り離されているように感じるというのだから、人間とは不思議なものだ。
天井まである棚に並べられたたくさんの古書やソファなどには、白檀の香りがすっかり染みついてしまっている。おそらくこの私にも。
壁の高い位置に飾られたいくつもの仮面が見下ろしているこの店の名は、古本喫茶ワヤン・クリという。ワヤン・クリは、覚王山コーポという前時代の名残のような古びた建物の中にあったのだが、老朽化により取り壊されることになってしまった。それで、これまた蔦の這う古めかしい煉瓦造りのマンションへと移店したのだ。
カウンターの奥の椅子に腰を下ろしたのは、この店のマスター、玄河。彼は襟足だけ伸ばした黒髪を髪紐でしっかり束ね直してから、おもむろに本を開く。
「曾根田君青著 イサーンの呪術と迷信」は、数年前、覚王山の高級マンション内でミイラ化した他殺遺体として発見された、タイ東北部の民族文化を研究していた男の遺稿を本に纏めたものだ。
玄河は長い指で書物の頁を捲りはじめる。見えづらかったのか、彼は私を外しササッと必要な材料と工程を写し取ってから、またすぐに嵌めなおした。どうやら、本に記されているタイ料理を作るつもりらしい。
なんともせわしないが、玄河は素顔を他人に晒すことを嫌う。とくに何度も顔を合わせることがある人間の前では、滅多なことでは仮面をはずさないようにしているのだ。もちろん例外もあるのだが。
また、頁をめくっていた玄河の動きが、ピタリと止まった。何者かの気配を察知したらしい。仮面の奥の瞳が、気配の元を探すかのようにあちらこちらへと動く。
「どうやら客が来たようだ」
ぼそりと呟いた彼はカウンターに背を向けて私を外し、『今日の仮面』を慣れた手つきで装着してから静かに席を立った。
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