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「管理人さん、いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
店に入ってきたひょろりとした背の高い男は、ここアルファ・ビルヂングの管理人ヒロ。背後に立っていたマスターの声に驚き、飛び跳ねそうになっていた。
「玄河マスターですよ……ね。その金色の仮面はいったいどうしたんです?」
近づいてきた玄河の異様な姿に後ずさりしながら、ヒロが訊いた。入居前に顔を合わせたときには玄河が仮面を外していたため、まさかこんな面をつけた奇妙な男だとは想像もしていなかったのだろう。
ひとつ頷いてから玄河は、「今日の仮面は、カンボジアのクメール人がおこなう仮面舞踊劇『Lakhon Khol』の面です」と言い、ゆっくりうねるように手を動かした。そして、明らかに当惑ぎみな管理人を気遣う様子もないまま、舞い踊るような動きをしながらくるりと回転してみせる。
「あのそれ、頭の上にいくつも顔があるように見えますが……」
距離を取り、怯える表情をしていたヒロは、玄河が仮面を外す気がないことに気づいたのか、そのまま話を続けることにしたようだ。
目に空いた小さな穴の中で玄河の瞳が動く。彼の嵌めている仮面は、ヒロが言うように金色に塗られている。真っ赤な口からのぞく牙、大きな耳に上向きの鼻、ぎょろりとした目に眉間の繋がった太い眉。それだけでも十分奇怪に見えるが、頭頂部から高く上に伸びた塔を含めれば、十もの顔を持つのだから、ヒロが怯えるのも無理はない。
「これは、十の顔を持つリアップという魔王でね、姫を誘拐して王子に倒される悪役なんだよ。悪役然とした顔だと思わないかい」
「ええ、たしかに悪そうです。あの、今日お邪魔したのは、新しい入居者の方にご挨拶をと思いまして。甥御さんとご友人が入居されるということでしたよね」
ヒロは玄河の話にはあまり興味がないのか、適当な相槌を打ってから、首を伸ばし暗い店の奥を見回した。
「彼らはいつも夕方ごろにここに来るから今はいないんだ。あとで挨拶に伺わせるよ」
「いえ、それなら、また改めて伺います」
ああそうだ、と店から出ようとした管理人を玄河が呼び止めた。
「管理人さんに訊きたかったことがあったんだ」
「何か困りごとでもありましたか?」
「困りごとというほどではないんだが、アルファ・ビルヂングにはコウモリを放し飼いにしている人がいるのかな」
「ああ、その話でしたか。最近コウモリを見かけるという話を入居者の方からよく聞くので僕も困っているんです。野生のコウモリが近くに棲みついてしまったんだと思いますが」
「ああ、なるほど。勝手に棲みついてしまったのか」
それは興味深い、とぼそりと呟いた玄河の声は、ヒロには届かなかったようだ。
「では失礼します」と会釈して、ヒロは出て行った。
ヒロが店を出ていくのをしっかりと見送ってから、玄河は壁面に並ぶ本棚に近づき、「生ける死体――民俗学から考える吸血鬼」という本を取り出した。
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