18.「聖女様、ありがとう!」

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18.「聖女様、ありがとう!」

 運河を撫でる風は街中よりも少し冷たい。日が落ちて街灯が頼りなく揺れる運河沿いを歩いて、ミーシャは目的のカフェまで辿り着いた。中の明かりはまだついていて、客の談笑の声が聞こえる。弦楽器と打楽器の音も響いているから、中で演奏会でもしているのかもしれない。  あまり人前に出たくない気分だったので入るのを躊躇していると、店の中から木製の扉が開いてギクリと身体が強張る。扉を開けたのは、少しヨレたカマーベスト姿の小柄なマスターだった。 「いつまで突っ立ってるんだい。外は寒いだろうに、早くお入り」 「き、今日は大丈夫。ありがとう、マスター……」 「なんだ、お代わりしにきたのかと思ったんだが。まぁ今日は特別騒がしいから仕方ねぇか。それよりあの騎士は一緒じゃないのかい?」 「騎士……?」 「ん?なんだ、会わなかったのか。ほら、前によくお遣いで来てた黒髪の兄ちゃん。いつものトッピングしていったから、てっきりお前の所に行ったもんだと……」  初老のマスターの証言に目を見開く。まさか、あのカプチーノを置いたのは。  言葉を失って固まるミーシャを見て何かを察したのか、マスターが「ちょっと待ってな」と声をかけて店の中に姿を消す。しばらくして戻って来た彼の片手には、店の看板と同じロゴが描かれた紙カップがあった。 「ほれ、ホイップマシマシシナモンがけ。今日は特別にチョコソースもかけといたぞ」 「えっ、ありがとう、今お代を……」 「いらんいらん。また来てくれりゃあそれでいい」  ミーシャが来週の年明けには継承の儀を終え王都を出立する予定だということを知ってか知らずか、マスターは綺麗に整えられた白い口髭を揺らして笑った。 「そう言えば、ミーシャはこっちに来た頃からよく奥の席で難しい本開いて一日中勉強してたなぁ。カプチーノばかり七杯も飲んで……」 「だって美味しいんだもの。ナルム村にはカフェなんてなかったし。それにマスターの店が一番安心できたから、ずっと居座っちゃってたんだ。ごめんね、邪魔だったよね」  赤毛の聖女だと後ろ指を差され人の悪意に晒され続けた少女の逃げ込み場だったカフェの店主は、一度もミーシャを邪険にしたり、店から追い出したりはしなかった。むしろその逆で、田舎の家族から引き剝がされ、国の厄災を全て背負ったような少女の身を純粋に案じていた。ミーシャもそんなマスターの心配りに気づいていたから、申し訳ないと思いつつもすっかり甘えてしまっていたのだ。 「どうせ馴染み客しか来なくて昼間はずっと閑古鳥が鳴いてんだ。特等席が一つくらいあっても構わんだろうよ。……でも、あの兄ちゃんが来るようになってからしばらく顔出さなかったな。やっとミーシャにもここ以外に拠り所ができたのかと思って、儂も安心したんだがなぁ」  そう言われてみれば、シャルルがいた時はラボや離宮の空気が軽く感じた。辛くなった時に逃げ込んでいたこの店に来る頻度も減って、マスターの顔を見たのも久しぶりだ。彼は護衛騎士として聖女の身辺を守る以外に、ミーシャの居場所を守ってくれていたのだ。今ではシャルルがいなければ息すらままならない時がある。とんでもない置き土産をしてくれたものだ、あの護衛騎士は。 「ミーシャがいつも何を頼んでどこの席にどれくらい滞在して何をしているかだの、やかましいくらい聞いてきてたからよぉく覚えてるよ。青二才のくせに、いっちょまえに番犬面してたぜ、あいつ」 「そうなんだ……」 「お前が思っている以上にアレはベタ惚れだ。聖女も新しい嬢ちゃんに任せて、さっさと嫁に行っちまえ」  無理難題を言うマスターはポケットから葉巻を取り出して火を付けた。ミーシャには「珈琲の味がわからなくなるから控えている」と言っていたくせに、いつでも吸えるようにポケットには入っているらしい。 「禁煙やめたの?」 「ばかもん、三ヵ月ぶりだ」  ぶっきらぼうに言って煙を吐き出すマスターにミーシャがクスッと笑う。久々に穏やかな気分になった。  お礼を言って背を向けて歩き出した彼女を「なぁミーシャ」と少しだけ呼び止める。 「他の奴らは知らんが、儂はこの十五年間もそんなに悪くなかったぞ。人間ってのは幸せな時は誰かのおかげだなんて思わねぇ癖に、しんどい時だけ誰かのせいにしたがる。そんな自分勝手な奴ら相手に、お前は良くやってたさ。どこで何したってかまわんが、せっかく自由になるんだから幸せになれよ、ミーシャ」  この世の理不尽から逃げるように退位する身にかけるにはあまりに過ぎた祝辞に、堪えていた涙がそばかすの散った頬を流れる。肩を震わせるか細い後ろ姿に煙を吐き出して「またな」と優しく声をかけたマスターは、賑やかなカフェの中へ戻って行った。  久々に噛みしめた誰かの温もりに涙腺が馬鹿になったミーシャは、白いローブのフードを深く被って運河沿いを歩く。パンプスを履いた足首を切るように、水面を撫でる風が冷たく吹いた。  止めどなく溢れる涙を拭いながら当てもなく歩いていると、フードで狭くなった視界の隅に茶色いワンピースの裾が映る。子どもらしい棒のような足を包む使い古されてよれたブーツが妙にミスマッチに見えた。目線を少し上げると、見覚えのある少女が無遠慮にこちらを見上げていた。 「やっぱり、あの時のおばちゃんだ!」 「……お姉ちゃんね」  似たような会話を火の手が迫る場所で交わしたことを思い出した。ミーシャが火事の現場から助け出した少女は、紙袋いっぱいに詰められた果物やパンを両手で重そうに抱えている。お使いの帰りなのだろう。  日の入りも早くなり、暗くなった道を少女だけで歩かせるのも気が引けて、成り行きで家まで送って行くことになった。少女から荷物を受け取って代わりにカプチーノを持ってもらい、空いた手を繋ぎながら街灯が頼りなく揺れる川沿いを歩く。 「おば……お姉ちゃん、聖女様だったんだね!お母さんとお城のお祭りにいったらお姉ちゃんがいたから、びっくりしちゃった」  お祭りとはおそらく即位の儀のことだろう。城の前に国民が大勢集まった光景は、子どもから見ればまさしくお祭りに違いないが。 「あの時すっごくキレイだったよ」 「うんうん。綺麗な黒髪の聖女様にみんな喜んでたね」 「ちがうよぅ!あたしが言ってるのはお姉ちゃんのこと!」 「え?」  繋いでいた手を離してダンスを踊るようにくるりと一周回って見せる少女は、無垢な表情でミーシャに笑いかける。 「白いドレスがふわぁって広がって、どこかのお姫様みたいだったよ!あたしのこと抱っこして二階から飛び降りたおてんばお姉ちゃんじゃないみたいだった。だからみんなに自慢しちゃった」 「な、何を?」 「炎の中からあたしを助けてくれたのは、あそこに座ってるキレイなお姉ちゃんなんだよって!」  確かにあの日は国事ということもあり聖女の正装である詰襟の白いドレスを身にまとっていたが、ノアを前にそんな場違いなことを言った少女が不当な目に遭わなかったか心配になった。 「そしたらみんな、なんだっけ……まごにも、いしょー?とか言って、褒めてたよ!」 (それは、褒められたの……?)  満面の笑みで夢見心地に語る少女を否定できるほど人格が破綻していないミーシャは、口端を引き攣らせてぎこちない笑みを浮かべる。ただ、処刑台に登るような気持ちであの場に座っていたミーシャが国民の目にそれなりの姿で見えていたのなら、上出来じゃないだろうか。 「あたし、お姉ちゃんが聖女様でよかった」  予想外のことを言われてギクリと体が強張る。急に立ち止まったミーシャを不思議そうに見上げた少女に、「どうして?」と恐る恐る尋ねた。 「だって、普通の聖女様は燃えてる建物に突っ込んで助けになんて来てくれないもの。あたしはお姉ちゃんがいたからきっと助かったんだよ。だから、お姉ちゃんが聖女様でよかった」  屈託のない笑顔でそう言った少女が、ミーシャの腐りかけた性根を拾い上げてくれた。  きっと優秀な聖女であれば、火消しが来る前に水魔法を使ってもっと華麗に助け出していたはず。それができないからと言って見捨てることもできず、少女を助けたい一心で無謀にも炎の中に身一つで突っ込んだのだ。  ループしたらもう二度と聖女にはならないと誓ったが、きっとミーシャはまたこの少女を助け出すために炎の中へ身を投げるだろう。例え自分が傷ついてでも何度でも同じ選択をする。それがミーシャ・ベロニカという人間の性分なのだから。  そんなことを言っているうちに、いつのまにか明かりが灯った家の前まで来ていた。ミーシャから荷物を受け取って、少女が軽やかな足取りで駆けていく。扉を開けて出迎えた母親がミーシャに気づき、深々と頭を下げた。母親の腕の中で少女が振り返り、無邪気に歯を見せて笑い小さな手を振る。 「聖女様、ありがとう!」  ずっと、その一言が欲しかった。  それだけでミーシャの空虚な十五年間は、意味のある時間に変わったのだ。
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