第3話 あの日のこと

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振り向くと、先ほど菜緒が見惚れていた少年が心配そうに立っていた。菜緒が驚いていると少年は菜緒の自転車のタイヤを見て全てを察した。 「ちょっと待ってて。」 少年はそう言って自転車小屋の方へ駆けて行き、自分の自転車を押して菜緒の元へ戻ってきた。そして自分の自転車を止める。 「俺の自転車押してってもらっていい?俺がこっち押すから。」 少年からの思わぬ提案に菜緒がためらっていると、少年は笑顔を見せる。 「このすぐ近くに自転車屋さんある?」 「うん、確か歩いて5分くらいのところに。」 「じゃあ、案内して。俺がそこまで押してくよ。」 家にこのまま帰るより自転車屋さんに行けばよかったのか、と菜緒はハッとすると同時に、会ったばかりの人にそんな手間はかけられないと思い、申し出を断ろうとした。 「え、でもそんな悪いし……」 「女の子1人じゃ大変でしょ?……あ、それとも家がこのすぐ近くなら家まで押してくけど……」 「あ、家はちょっと離れてる……」 「よし、じゃあ、自転車屋さんに行こう。俺の自転車、よろしくね」 少年は遠慮する菜緒から自転車を受け取り進み始める。菜緒は戸惑いつつも少年の自転車を押し始めた。見ず知らずの自分にここまでしてくれる少年の優しさに有り難さも感じつつも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 「あの、ごめんね。疲れてるのに……」 「え?」 少年がトレーニングしてたところを見ていた菜緒は咄嗟に少年の体力の心配をしたが、そのことを知らない少年は少し不思議そうな顔をしている。 「あ、あの、わたしさっきまでベンチで本読んでて、その時に野球の練習してるの見えたから……」 菜緒の言葉の意図を理解した少年は優しく微笑み、自分の疲れを否定した。 「ああ、大丈夫だよ。軽いトレーニングとかしかしてないから」 「……いつもここでトレーニングしてるの?」 「いや、今日初めて来たんだ。日曜は大体部活とか試合なんだけど、今日は珍しく休みで。暇だったからちょっと遠くまで来てみようかなって」 「家はここから遠いの?」 「うん。ちょっとね。俺南中だから」 「え!南中なの?逆方向じゃない?」 少年の通っている中学校の名前を聞いて菜緒はとても驚いた。そして押してた少年の自転車を止めて立ち止まる。 「ここまででいいよ」 「え?なんで?」 「ただでさえ遠いのに逆方向の自転車屋さんまで行ってたら……」 そう言いながら、菜緒は少年が押してくれている自分の自転車を受け取ろうとした。 「ここからすぐだし、自分で持って行くよ」 「大丈夫。普段から野球部の練習で鍛えられてて体力に自信あるし、それにどうせ自転車で帰るんだからちょっとくらい距離が変わってもどうってことないから」 「でも……」 「今日たまたま初めて来た公園で自転車がパンクして困ってる人を見つけたのも何かの縁だから、人助けさせてよ」 屈託のない笑顔でそう言われて菜緒は何も返せなかった。申し訳ない気持ちはあったが、そこまで言ってくれる少年の優しさに思い切って甘えることにした。 それから2人は他愛もない会話をしながら自転車屋さんへと向かっていった。夢のこと学校のこと家族のこと。普通に歩けば5分程度で着く場所だっが、結局30分以上かかった。パンクした自転車を押しているせいもあるが、妙に会話が弾んでお互いにもっと話したいと思う気持ちが自然と2人の歩く速度を遅めていたようだ。 「本当にありがとう。助かりました」 そう言って菜緒は深々と頭を下げた。 「いや、いいって。俺のほうこそ、ちょっと強引だったよね」 「ううん。そんなことない」 菜緒は全力で首を横に振った。あまりにも力強く首を振る菜緒を見て、少年は「首痛くなるよ」と笑いながら自分の自転車に跨った。 「……それじゃあ、行くね」 「うん。ありがとう。気をつけてね」 「そっちもね。……じゃ、またね」 「うん、またね」 2人は手を振り挨拶を交わした。菜緒は去っていく少年の姿が小さくなるまで見送った。 今日たまたま会って、しかも少年はここから離れた場所に住んでいる。もう会えない可能性の方が遥かに高い。だけど、菜緒はお互いに自然と言い合った「またね」という言葉の可能性の方を信じてみたくなった。 ――また会えたらいいな。
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