00|夕暮れの街(序章)

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00|夕暮れの街(序章)

 右耳につけていたイヤリングを、雑踏の中に落とした。  四月を目前にした夕暮れの街、スプリングコートを羽織った人々の中に飛び込んだ、きっとあの直後だろう。アンティークのカボションとパープルグレーの小さなタッセルを組み合わせた、ささやかに揺れるイヤリングだ。ほんの少しねじをゆるめていたのが良くなかったのかもしれない。  それまで身体のまわりにあいまいに浮かんでふらふらとしていた気持ちが、突然かみあった気がしたせいだ。頭と心と身体、それから目の前の現実に。  ――ごめん、わたし、用事があるの忘れてた。    匠永(しょうえい)くんに何とかそう告げてすぐに、わたしはそこから全力で走り出していた。  後ろからわたしを呼ぶ、「恵理(えり)さん」という声に気持ちが捕まってしまう前に、そうしなければいけなかった。  駅へと向かう人々の何人もが驚いたようにわたしを振り返り、迷惑そうに眉を寄せる。わかってる、こんなの無作法だし危険だ。こんなに混みあった街の中を興奮した野うさぎみたいに疾走するものじゃない。  そう思いながらも、わたしの足は速度を落とすことなくその場所を目指していた。  前髪が後ろへと流れ、額が丸出しになってしまうほどの速さで街を駆け抜けながら、頭の中に浮かんでいたのはわたしを見る逢青(おうせい)の困ったような笑顔だった。  ふたりでいるあいだ、たびたび彼が見せた表情だ。  自分のどうしようもなさをよくわかっていながらもどうすることもできない、そんな彼の気持ちの揺れがそのまま表に出たような、あの人のどこか困ったような笑顔。     それだけが、わたしの答だった。
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