きらきら

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「妊娠していますね。おめでとうございます。」 妊娠していることは十中八九分かっていた。ただ‘おめでとう’と言われたことに驚いた。いや、驚いたというよりはその言葉が私に向けられたことに違和感があったのだと思う。 「今妊娠七週目ですね。赤ちゃんの心拍がもう確認出来るので、次回までに母子手帳を貰って来てください。」 「あ、…はい。」 たったそれだけ返事をして私は診察室を出た。  初潮を迎えてからこの歳になるまで、どれだけ体調を崩しても生理が遅れたことなんて一度もなかった。毎月正確にやって来ていた生理が止まった原因は、妊娠検査薬の結果を見る前からなんとなく分かっていた。 「…もしもし。今大丈夫?」 病院の駐車場に停めた車に乗り込み、私は彼に電話を掛けた。 「やっぱり出来てた。今七週だって。うん、大丈夫。ちゃんと気をつけて帰るから。」 電話の向こうの彼はまだ仕事中だった。外が薄暗くなってきた夕方五時半。早番の仕事を終えてから病院に行った私は、このまま帰宅するだけ。携帯電話を助手席に置いて目を閉じた。 「…仕事、どうしようかな。」 お腹の中の新しい命のことではなく、私は明日からの仕事のことばかり考えていた。 「谷口(たにぐち)さん、体調が悪いなら休みなさい。」 専門学校を卒業して調理師免許を取得してからずっと働いているレストラン。直属の上司である大屋(おおや)さんは仕事には厳しいけれど、優しい人だった。 「最近ずっと顔色が良くないわ。どこか悪いの?」 隠せる所までは隠しておきたかった。スタッフが不足しているこの店で、早退や病欠は法度だった。でも、私の体はもう隠し通せない程悲鳴を上げていた。朝から晩まで治まることのない全身の倦怠感と頭痛と吐き気。自分が作っている料理の匂いで常に吐きそうだった。一番駄目なのがコーヒーの匂い。飲むことはおろか、匂いを嗅ぐのも無理だった。 「…妊娠?」 早番の大屋さんがスタッフルームで帰り支度をしている時に休憩に入り、体調不良の経緯を話した。 「結婚って…?」 「…まだです。」 「彼には言ったの?」 「…はい。自分で検査した日に言いました。」 「そう。えっと…産むのよね?」 そう聞かれて私は初めて気がついた。妊娠の兆候があった時も、自分で検査をした時も、病院で妊娠を告げられた時も、私は一度も、産むか産まないかの選択をしなかったな、と。 「はい。」 結婚もしないまま予期せぬ妊娠だったけれど、一度も‘中絶しよう’とは考えなかった。‘子どもが出来た=産む’そういうものだと思っていた。それはきっと彼も同じだったはずだった。返事をした私に大屋さんは優しく笑ってくれた。 「欠勤が増えたり、今までの業務が出来なくなったりするのなら、皆にも話しておかないといけないと思う。」 安定期まで言わずにおきたかったけれど、理解を得ようと思うなら話すしかないことは分かっていた。ただ話したところでこの切迫した勤務状況の中で、私の妊娠を快く受け入れてくれる人がいるとは思えなかった。  彼と籍を入れ、私の名前は谷口楓から村本楓(むらもとかえで)に変わった。住所は彼のマンションになり、通勤時間が少し長くなった。私にとっては様々なことが変わったけれど、彼は結婚前も今もそれほど変化はなかった。休日も違うすれ違った生活の中で、以前と変わらずマメに連絡はくれるし家事も当然のように済ませてくれていた。この妊娠の有無に関わらず、私は彼と結婚したいと思っていた。五年以上一緒にいる彼は恋人であるだけでなく、私の良き理解者だった。 もう一人、私には良き理解者がいた。 「楓がママかぁ。絶対私の方が先に結婚出産すると思っていた。」 妊娠が分かってすぐに連絡はしたけれど、予定が合わずになかなか会うことが出来ずにいた。明日私も彼女も仕事が休みなので、彼女の家に泊まることになっていた。 「葵の方が結婚願望強かったよね。」 彼女の名前は高田葵(たかだあおい)。同じ高校を卒業し、大学に進学した彼女は卒業後この辺りで一番大きな総合病院で看護師をしている。 「私は早く結婚出産したくて、楓は調理師としてバリバリ働くのが夢だったもんね。」 そう言って葵は笑う。学生の頃から葵は家庭を持ちたい願望が強く、逆に私は調理師としていかにキャリアを積んでいくかばかりを考えていた。彼と出会ってからは結婚を意識するようになったけれど、仕事を続けていくために子どもを持つことはあまり考えていなかった。 「仕事、どう?」 「…まぁ居心地は悪いよね。」 苦笑いでそう答えるしかなかった。一時期より悪阻は落ち着いてきたけれど、以前と同じように働くことはまだ難しかった。人手が足りないのに、優先して楽な仕事をさせてもらう私。正社員だから給与は以前と変わらない。快く思われていないことも、陰口を言われていることも自覚していた。 「私ね、次の異動で念願の救命センターに行けそうなの。」 「本当に?やったね。」 葵は看護師になってからずっと救命に興味を持っていた。 「ありがとう。忙しくなりそうだけど、楽しみなんだ。」 ほんの数ヶ月前までの私は、今の葵と同じように仕事へのやる気と希望に満ちていた。きついことがあっても、調理師は私の昔からの夢だったから。でも今の私は違う。毎日憂鬱な気分で店の扉を開け、ただその日の仕事を終えて何の成長もなく家に帰ることだけを考えている。陰口を言われて、体調も悪くて、心身ともに限界だった。  春。葵が念願の救命センターに異動になったのと同時期に、私は仕事を辞めた。安定期に入り悪阻は落ち着いて来たけれど、もうこの店で働いていくことは難しかった。初めの頃は優しかった大屋さんも、殺伐とした空気の中で徐々に私から離れていった。 「お世話になりました。」 花束を持って私は頭を下げた。 「赤ちゃん産んだら見せに来てね。」 形式的な花束に形式的な言葉。産まれた子どもとこの店を訪れても、きっと歓迎されることはない。専門学校を卒業してから四年働いた。こんな形で退職するなんて、四年前の私は思ってもみなかっただろう。  店を出て駅に向かう途中で、バッグの中の携帯電話が鳴った。 「もしもし、楓?仕事終わった?」 明るい葵の声だった。 「うん、今駅に向かっている所。」 「そう。四年間お疲れ様。退職おめでとう。」 ‘それだけ’と言って葵は電話を切った。きっと仕事の休憩中に態々掛けてくれたのだろう。私自身でさえ否定しそうになっていたこの四年間を、葵は肯定してくれた。頑張っていた期間の方が長いはずなのに、何も残せず調理師という仕事から離れていくような気がしていた。‘四年間お疲れ様’という葵の言葉で、四年間私なりに頑張ってきたのだとようやく思えて、涙が出た。  予定日を三日過ぎてようやく陣痛が始まった。痛いのか痛くないのかはっきりしないお腹の違和感とともに日中を過ごし、夕方彼が早目に帰宅した頃に重い陣痛が十五分間隔でやってきた。病院に着いてすぐに破水し、それからはあまりの痛みにベッド上をのたうち回り、声が枯れる程‘痛い’と叫んだ。日付が変わる少し前、ようやく娘が産まれた。皴々の顔。触れるとそっと握ってくる小さな手。彼はぎこちなく、でもとても嬉しそうに娘を抱いていた。すべてが愛しかった。 「花純(かすみ)ちゃん、可愛いね。」 翌日、夜勤明けで見舞いに来てくれた葵は、父親である彼よりもずっと上手に娘を抱っこしていた。 「目元は楓似だね。鼻と口はパパかな。」 葵は花純を見て優しく笑う。 「忙しいのに来てくれてありがとう。」 救命センターに異動してから葵は以前より忙しくなっていた。それでも退職して一人家にいる私を気遣って遊びに来てくれたし、今もこうしてすぐに会いに来てくれていた。自分が忙しいことや疲れていることを決して口には出さず、葵はいつも笑っていた。  娘の花純は新生児期からずっと寝つきが悪い。抱っこしていれば眠っているけれど、ベッドに下ろすと途端に泣き出してしまう。添い寝で寝てくれたことはなく、花純を抱っこしたまま座って眠る日がよくあった。里帰りはしなかったけれど、私の母も彼のお義母さんも週に一度は何かしら手作りのおかずを持って手伝いに来てくれた。夫も仕事をしながら出来る限りのことをやってくれていた。  四か月を過ぎた花純は寝返りをうつことを覚えた。仰向けからうつ伏せにはなれるけれど、自力で仰向けに戻ることは出来ない。しばらくうつ伏せの状態でいると、花純は激しく泣き出す。私が仰向けに戻すと、またすぐに寝返りをうつ。一日そんなことの繰り返し。加えて昼寝は細切れで、夜中に何度も泣いて目を覚ます。家事をする時間が取れないばかりか、朝起きたままの格好で一日過ごしていることもあった。休日に娘の様子を見て知っている夫は、平日にほとんど家事が出来ていなくても嫌な顔一つしなかった。葵も頻繁に連絡をくれる。彼からも両親からも義両親からも葵からも、私は大切にされていた。でも家にいるのに家事も満足に出来ない。今私がやっていることには終わりも区切りもない。達成感のない毎日に焦りと苛立ちを覚えていた。  昨夜は久しぶりにほぼ横にならずに過ごした。夫は出張で不在。夕方から熱があって機嫌の悪かった花純は、ベッドでは頑なに寝ようとしなかった。立って抱っこをして寝かし、私はベッドかソファに座る。また花純が泣いて目を覚ますと立ち上がる。そんなことを一晩中繰り返して、朝八時を過ぎた頃ようやくベッドに寝かせてもぐっすり眠ってくれるようになった。昨日の昼過ぎに洗った洗濯物を干して、出したままの食器やおもちゃを片づける。昨日やり残したことをやるだけであっという間に一時間以上が過ぎた。花純が目を覚ます前に出来れば掃除と今日の食事の準備もしたかった。やることは山積みだった。九時半を過ぎた時、寝室で私の携帯電話が鳴っていた。マナーモードにし忘れた携帯電話は大きな音で着信を知らせている。私は大急ぎで寝室に行き、携帯電話を手に取った。着信は切れて、液晶には葵の名前が表示された。ベッドに寝ていた花純の目が開いて、大声で泣き出した。私は携帯電話を置いて、やり残した家事の数を頭の中で数えながら、泣いている花純を抱き上げた。 「もしもし。さっき電話ごめんね。」 授乳をしながら葵に電話を掛けた。花純の熱はすっかり下がっていて、おっぱいを飲んでいる顔は昨日より機嫌が良さそうだった。 「こっちこそ朝からごめん。夜勤明けでさ、今日予定が無ければ午後から遊びに行ってもいいかな。」 明るい葵の声。私と同じようにほぼ一晩中起きていたとは思えない声色だった。  完全に目が覚めた花純をおんぶしながら最低限の家事をして、十一時過ぎに朝食なのか昼食なのか分からない食事を摂った。花純が眠っている間に、顔を洗って眉毛を書いた。髪は梳かすだけ。ジーパンとニットに着替えて、リビングの床に落ちている物を片づけた。そしてインターフォンが鳴った。 「はい、これ。楓と一緒に食べたくて。」 玄関のドアを開けると同時に差し出された袋。通っていた高校の近くにある、昔よく一緒に行ったケーキ屋さんの箱が入っていた。 「久しぶりに食べたくなっちゃって。やっぱりあのお店のチーズケーキが一番美味しいよね。」 葵も私もチーズケーキが好きだった。 「ありがとう。」 受け取って葵と一緒にリビングに向かった時、目を覚ました花純が泣き出した。 「花純ちゃん、ねんねしてたの?」 ケーキの箱を持った私より先に、花純を抱き上げてあやす葵。葵が抱っこをすると、花純はいつもにこにこしている。今もそう。昨夜、私が抱っこしている時はあんなに泣いていたのに。  テレビ前の小さなテーブルでケーキを食べた。花純は胡坐をかいた葵の足の上に横たわり‘あー、あー’と喋っている。目の前に座る葵は、綺麗に化粧をして、サラサラの長い髪をきちんと結んで、綺麗な服を着て、いつもと同じようににこにこと笑っていた。きらきらと眩しい程に。比べて私は、眉毛しか書いていない顔に、梳かしただけのボサボサの髪、動きやすい着古した服を着て、ちゃんと笑えているのかも分からない。葵と一緒にいて、こんな気持ちになったのは初めてだった。 「昨夜、事故で運ばれて来た人がいてね。」 葵は昨夜の夜勤でのことを話し始めた。‘重症だったけれど一命を取り留めて本当に良かった’、と。葵の仕事は本当に大変だと思う。でも葵の仕事にはその日その日で区切りがある。そして、やりがいに満ちている。 「昨夜、花純熱があって。ほとんど一晩中泣いて起きていた。」 私は仕事を辞めた。花純を産んで本当に良かったと思っている。あの時仕事を辞めたことに後悔はない。 「忙しくてしんどいことも多かったけど、仕事していた時の方が今より断然楽だったな。」 仕事を辞めて、花純とこうやって暮らす日々を選んだことに後悔はないはずなのに。目の前にいる葵の顔が一瞬何か言いたげに歪んで、すぐにいつも通りの顔に戻った。 「ごめんね、大変な時に来ちゃって。」 そう言った葵に私は首を横に振る。 「どうせ寝られるわけじゃないから。」 葵は困ったように笑った。私は今どんな顔をしている? 「あ、コーヒーおかわり淹れようか。」 立ち上がって逃げるようにキッチンへ向かった。
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