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一歳になる前に歩き出した花純は、よく動くからか夜泣きをせずぐっすり眠ってくれる日が増えて来た。公園に来て遊び出すとなかなか家に帰れなかった。
「ママ、あーちゃ。」
一歳三カ月になった花純は、私のことは‘ママ’、夫のことは‘パパ’、葵のことは‘あーちゃ’と呼ぶ。葵が遊びに来るのは月に数回だけれど、家に私と葵二人で撮った写真が飾ってあるのを見て花純は葵の顔をちゃんと覚えている。
「最近いつも公園でごめんね。」
そう言うと葵は笑う。
「いいの。いいの。私、花純ちゃんとも友達だから。」
葵は隣で水筒のお茶を飲んでいる花純の頭を優しく撫でた。
「もうすぐお姉さんになるんだね。」
葵は、花純と私のお腹を交互に見た。まだ目立ちはしないけれど、私のお腹は新たな命を宿して少し膨らんできていた。
「引越しって来月だっけ?」
「うん。出産までには片付け終わりたいな。」
「そんな長丁場を予定しているの?」
「片付け苦手だもん。」
「確かに実家の部屋いつも散らかっていたよね。」
そんな話をして笑い合った。実家の私の部屋で葵と一緒に勉強をしていたあの日々は、気づけば七年以上前の出来事になっていた。七年でいろいろなことがあった。いろいろなことが変わった。
「こんなに楓と離れて住むのは初めてだね。」
「徒歩圏内だったのが、車で三十分になっちゃうね。」
隣の市に一軒家を購入した。夫が産まれ育った街だった。小学校も中学校も駅も近い。子育てをしていくにはとても優しい街だと聞いた。来月には今のマンションから新しい家へ引っ越す。葵の家は、学生時代は自転車で行き来出来る距離で、社会人になってからは徒歩圏内だった。日々生きていく中で、いつも選択を迫られる。小さな選択だけではない。時には大きな選択をする。花純を妊娠して仕事を辞めた時もそうだった。今は、産まれ育った街と大切な親友から離れ、家族で生きていきやすい場所へ移る選択をした。選択しなかった方を捨てるつもりはない。それでも、私はこれから葵と今までのようには会わなくなるのだろう。
二人目の子どもは男の子。日向(ひなた)と名付けた。花純と顔つきはよく似ていたけれど、抱っこをした時に感じる体つきが全然違っていた。全体的に柔らかくてふにふにとしていた花純と違い、日向はがっしりとしていて逞しかった。二歳差で日向が産まれた時、花純はイヤイヤ期の真っ最中。赤ちゃん返りも相まって、家の中では花純か日向のどちらかがいつも泣いていた。
「初めまして、日向くん。」
葵が日向と初めて会ったのは、産まれてから一ヵ月半後のことだった。その前に葵と会ったのは、日向が産まれる一か月前になる。
「ママ―、だあれ?」
日向を抱っこする葵を見て、花純は尋ねる。引越しをしてからなかなか会えなくなった葵を、花純は以前のようには覚えていない。
「あーちゃんだよ。花純といっぱい遊んでくれたお姉さん。」
部屋に飾ってある私と葵が写った写真を指さすと、花純は‘ふーん’とだけ言った。その様子を葵は少し寂しそうな顔で笑いながら見ている。
「あんなに遊んで貰ったのに。」
「しょうがないよ。」
葵はそう言って、日向を抱っこしたまま花純の方へ近づいた。
「私ね、花純ちゃんと遊びたいな。」
葵がにっこり笑ってそう言うと花純は嬉しそうに頷いて、慌ててお気に入りのおもちゃを取りに行った。
寝始めた日向をベビーベッドに寝かせて戻ると、葵と遊んでいた花純がおやつを要求し始めていた。葵のお土産のプリンを出すと、花純は目をキラキラさせた。
「そうだ、これ。」
花純が夢中でプリンを食べていて静かになると、葵はバッグから綺麗な封筒を取り出した。
「結婚するの。」
渡された封筒を手に取ってそう言われた時、初めて結婚式の招待状だと分かった。
「そっか、おめでとう。」
葵には花純が産まれたすぐ後頃から付き合っている人がいた。私は会ったことはないけれど、年上で優しくて葵をとても大切にしてくれている人だった。でも、‘結婚するの’と聞いて驚いた。プロポーズをされたことも、結婚を決めたことも、結婚式の準備をしていることも、私は何も知らなかったのだから。
後日、招待状には‘出席’に丸をつけて返信した。結婚式に出席したことは今まで数回しかない。私の友人達は、独身でバリバリ働いている人ばかりだった。私自身の結婚は早かったけれど、結婚式は挙げていない。花純が六カ月の時に三人でウエディングフォトを撮っただけだった。
‘葵の結婚式に出席したい’と話すと、夫は快く‘行っておいで’と言ってくれた。花純の時は母乳だけで育てていたけれど、私が外出出来るように日向はミルクと混合にした。夜しっかりと寝てから出掛けられるように、前日も仕事から早めに帰って来てくれると言った。それだけ夫も、私にとって葵が特別な存在だということを昔から分かっていてくれていた。大切な葵の結婚式がとても楽しみだった。でも時々、日向が夜泣きをして眠れない長い夜や心が晴れない日に思う。葵はどうして、結婚の話をしてくれなかったのだろうな、と。
日向の首も座り、出産直後の花純のイヤイヤも落ち着いてきた。小さなお姉さんは、自分より小さな存在を可愛いと思えるようになってきたようだった。
「ひーくん、抱っこしてあげようか?」
床に足を伸ばして座った花純は、自分の足の上に日向を乗せるのが好きだった。花純のお腹に日向の後頭部をぴったりくっつけても、日向の足は花純の足からはみ出している。出産してからとにかく突き進むしかなかった二人育児。最近ようやくゆとりを持って二人を眺めることが出来るようになってきた。
「あー、パパだ!」
普段花純が寝た後にしか帰宅することのない夫が、今日は私達がお風呂から出た頃に帰って来た。休日と朝にしか会えないパパが目の前に現れたことで花純は大興奮。足の上に日向を乗せていることなんてすっかり忘れて勢いよく立ち上がろうとした。私は慌てて日向を抱き上げた。
「おかえり。ありがとう、早く帰って来てくれて。」
明日は葵の結婚式だった。
花純と日向を寝かしつけた後、残っていた家事を済ませて私も布団に入った。うとうとし始めた頃に夫も寝にやってきた。今夜は、花純と日向が夜泣きをしても夫が見てくれるらしい。夜泣きが始まれば確実に私も目が覚めるけれど、一人で夜泣きに対応しなければいけないのと、二人でやればいいやと思えるのとでは全然気分が違った。
眠りについてどれくらい経っただろうか。隣にいる花純の泣き声が聞こえて目が覚めた。いつもの夜泣きとは泣き方が違っていた。
「花純、どうしたの?」
普段の夜泣きで目が覚めることのない夫は、まだぐっすりと眠っていた。私は花純の方へ体を向ける。小さな声で‘ママ、ママ’と呼んで泣く娘。その体にそっと触れた瞬間、体温がとても高いことに気がついた。微熱程度ではない。かなり高熱だった。抱き上げようと花純の体を動かした時、苦しそうな声とともに花純が嘔吐した。布団も花純の服も嘔吐物で汚れていたけれど、私は慌てて花純を抱き上げた。
「花純が吐いた。熱もかなり高いの。」
花純の体を支えながら夫を起こす。夫は驚いたように飛び起きた。
その後花純は何度か嘔吐を繰り返し、体温も三十九度前後から下がらないまま朝を迎えた。風呂場には汚れた布団やパジャマが山積みになっている。長い、長い夜だった。
朝一番で、夫が花純を病院に連れていくことになった。今日は土曜日。午前中は病院がやっている。夜中日向が目を覚ました時は夫がミルクをあげていたから、明け方から私の胸はパンパンに張っていた。起きた日向を夫から受け取って授乳をする。その間に夫が着替えを済ませ、パジャマ姿の花純に上着を着せていた。開院は九時。車で五分の距離だけれど、夫は八時四十五分に花純を連れて出掛けて行った。
私も夫も敢えて口には出さなかった。今日の葵の結婚式に、私は行けないということを。もし夫に‘行ってきてもいいよ’と言われたとしても、私は絶対に行かない。あんな花純を置いて行けるはずがなかった。そう、ちゃんと分かっている。分かっているはずなのに、静かな部屋で気が緩んだのか、涙が零れた。おっぱいを飲んでいる日向の頭に涙が落ちる。日向は気にする様子もなく、一生懸命おっぱいを飲んでいた。今日のこの選択は100%間違っていないと言い切れるのに、私の涙はしばらく止まらなかった。
「すごく綺麗。実物を見たかったな。」
「あーちゃん、これお姫様みたいだね。」
テーブルに並べられた葵の結婚式の写真を私と一緒に眺めながら花純は目を輝かせていた。最近キラキラやフリフリした物に興味を持ちだした花純は、お姫様になった葵の写真を見て大興奮だ。
「花純ちゃん、ありがとう。でも、本当に元気になって良かったよ。」
葵はそう言って花純の頭を優しく撫でた。あの日、繰り返す嘔吐で脱水症状を起こしていた花純は病院で点滴を打ってもらい、その後二日程かけて回復した。式場に連絡を入れて、葵の携帯にも謝罪のメッセージを送った。その日の夕方、おそらく式が終わってすぐに葵から電話が掛って来て、花純のことをとても心配してくれた。私はただ申し訳なくて、葵に何度も謝った。
「救急で子どもが運ばれてくることもあるけど、本当にいつ体調崩すか分からないよね。」
葵の言葉に私は黙って頷いた。花純も日向も可愛い。ただ、いつもどこか不安だった。医学の知識なんて何もない私が、常に二人とともにいて二人の命を預かっているのだから。夫が出張の日の夜に、どちらかが体調を崩すととても不安だった。私一人で、大丈夫なのだろうかって。
「私も、母親になる日が来るのかな。」
葵はポツリとそう言った。
「子どもはまだ先?」
「出来たら出来たで産むかな。でも今はまだ仕事で手いっぱい。」
おそらく今の葵に、私が花純を身ごもった時のような‘仕事を辞める’という選択肢はないのだろう。
―――私早く結婚して子供が欲しい。
高校の頃、そんなふうに話していた葵の顔が浮かんだ。家庭を持って子どもを産みたいと言っていた高校生の葵は、大人になった自分がこんなふうに子どもの話をしているなんて思いもしなかっただろう。
子どもの成長は早い。花純はよく喋るようになり、日向はとても活発に動くようになった。毎日二人に手を焼きながら、花純の入る幼稚園を探すため、見学や説明会に通った。入園を決めて、同じ園に通う予定の子のお母さんと仲良くなり、お互いに子どもの話が出来る友達が出来た。
葵とは二、三カ月に一度程のペースで会っていた。だいたいいつも葵の方から都合の良い日を連絡して来て、私がそれに合わせて予定を立てる。ふとカレンダーを見ていて気がついた。私もバタバタしていて気付いていなかったけれど、前に葵と会ったのはもう三カ月前になっていた。そして、まだ次に会う約束はしていない。特に急ぎの用事があるわけではないけれど、‘次、いつ会う?’とメッセージを送った。
葵から返事がないまま二日経った。メッセージは既読になっている。今までこんなふうに返事が来ないことなんてなかった。何かあったのかと心配になり、電話を掛けてみることにした。
「…もしもし。」
長いコールの後で、ようやく葵が電話に出た。
「もしもし、葵。何かあった?返事がなかったから心配で。」
そう言うと葵は短い沈黙の後、
「ごめん、返事するの忘れてた。今ちょっと仕事が忙しくて。また予定が分かったら連絡するね。」
とそれだけ言って電話を切った。怒っているような声ではない。でも、どこか拒絶されているような気がした。
それから一週間待っても一カ月待っても、葵からの連絡はなかった。葵の方から連絡をすると言われた手前、私から催促の連絡をするのは気が引けた。葵と出会ってからこれまでに、喧嘩という喧嘩をしたこともなかった。怒らせた覚えもないし、避けられるようなことをしたつもりもない。私と葵の間に今何が起こっているのかも分からなかった。ただ、これが独身時代ならもっと必死に解決策を考えたと思う。今の私は毎日の慌ただしさを言い訳に、真剣に葵と向き合うことを避けていた。そしてそれを後押しするのは、きっと絶対的な安心感だった。例え友達が全員私から離れていったとしても、私には家族がいる。葵がいなくても、夫がいて花純がいて日向がいる。そうやって、私は自ら葵と離れていったのかもしれない。
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