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日向が幼稚園を卒園するまでは、短期のパートをいくつかやった。花純と日向が小学校に入ってからは、二人が通う学校の給食センターで働き始めた。やっぱり料理を作る仕事からは離れられなかった。昔憧れていたお洒落なお店の調理師とは全然違っているけれど、自分の子どもも含めた何百人もの子ども達に毎日自分の作った物を食べて貰えるのはとてもやりがいがあった。花純と日向も帰宅後、
「今日の給食おいしかった。」
と話してくれる。相変わらず毎日は慌ただしかったけれど、結婚前に仕事をしていた時より今の方が充実している気がした。
「お母さん、さっき買った服にその靴は合わないと思う。」
高校生になった花純は、私の服装や体型に容赦なく口出しをしてくる。
「えー、じゃあこっちは?」
「そっちの方がありえない。」
とても辛口。でもファッションに興味があるらしい花純は、一緒に買い物に行くと私に似合う服を一緒に真剣に考えてくれる。
「あとは、当日までにちょっと痩せれば完璧だね。」
四十歳を目前にした私のお腹は脂肪を年々蓄えてとても大きくなった。花純いわく‘ぎりぎりぽっちゃり’らしい。
買い物を終えて家に帰ると、出掛けていた夫も部活に行っていた日向も帰宅していた。
「似合う服あったの?」
「もうちょっと痩せることを前提で選んできた。」
花純と日向の会話を聞いて、夫が笑いを堪えている。
来月、高校の同窓会が行われる。今までも色々な同窓会の案内が届いていたけれど、育児を理由に参加を断っていた。今回は、今も連絡を取り合う高校の同級生が幹事をやるということで、私も参加することにした。高校卒業からもう二十年以上が経つ。久しぶりに高校の頃のアルバムを見ていると、そこには懐かしい顔がたくさんあった。
「この人、仲良かったの?」
アルバムの中でいつも私の隣で笑っている女の子。昔何度も遊んで貰った記憶なんてもうどこにもない花純が、その女の子を指さす。
「うん、すごく仲良かった。」
そう答えた私の言葉はちゃんと過去形だった。 十四年前、葵から連絡が来なくなった日から私達は一度も会っていない。葵からも連絡は来なかったし、私からもしなかった。今度の同窓会に葵は来るだろうか。来たとして、私達は顔を合わせて一体どんな会話をするのだろう。
日曜日の昼過ぎ。久しぶりに電車に乗って、市内のホテルにやって来た。
「あ、楓!」
会場に入ってすぐ、幹事をしている友人がやってきた。‘楓’と誰かに名前を呼ばれたのはとても久しぶりだった。
「皆あの辺にいるよ。私も後で合流するね。」
そう言われて、彼女が指さした方向へ歩いて行く。
「楓、こっちだよ。」
高校三年生で同じクラスだった友人三人の姿が見えた。それぞれ老けてはいるけれどちゃんと面影はあった。私は手を振って三人に駆け寄る。
開場して三十分程経った頃、幹事の友人と一緒にすらっとした女性が近づいて来た。
「葵じゃん!全然変わってないね。」
背が高くて細身だった葵。十四年前からあまり変わらない姿で葵は現れた。周りの友人のようなテンションで葵に話しかけることが出来ず、私は一歩引いた所にいた。葵の姿を見るまでは、会えば十四年前と同じように自然と会話が出来る気でいた。でもいざ目の前にすると、話しかけるどころか皆と混ざってうまく会話をすることすら出来なかった。
一次会が終わり、仲の良い友人達だけで二次会に行くことになった。葵も含めて、三年生の時に同じクラスだった六人で、開店したばかりの居酒屋へ入った。葵は対角の一番遠い席にいた。六人全員が結婚していて、私を含めた四人は子持ち。子どもがいないうちの一人は去年結婚したばかりで、もう一人は葵だった。
―――私も母親になる日がくるのかな。
そう言ったあの日の葵の表情が何故か鮮明に浮かんだ。
八時を過ぎた頃にお開きとなった。今いた店は自宅から二駅の場所。普段飲まないお酒を飲んで、頭が少しボーっとしていた。電車に乗るために駅へ向かう皆と別れて、酔いを醒ますために二駅分歩くことにした。
「楓。」
後方から私を呼んだその声は、今日一度も二人で会話をすることが出来なかった葵だった。
「歩いて帰るの?」
「うん、酔い醒ましに。あと運動のために。」
そう言って私は笑いながら自分のお腹を撫でた。
「娘にも息子にも‘痩せろ’って言われていて。簡単に太るのに、痩せるのは難しいんだよね。」
少し困ったように笑う葵の顔は昔と変わっていなかった。思ったよりも今ちゃんと話せている気がした。十四年間会っていなくても、葵から連絡が来なくなった理由が分からないままでも、葵は昔のように私に笑ってくれていた。
「花純ちゃんと日向くん、元気?」
葵はもう花純の名前も日向の名前も忘れてしまっていると思っていた。だからさっき敢えて‘娘’と‘息子’と言った。でも葵の口から出た二人の名前は、朧気な記憶を辿るような言い方ではなかった。花純のことも日向のこともちゃんと覚えていてくれたようだった。
「うん、元気だよ。」
そう答えると葵は穏やかに笑って、しばらく黙っていた。
「…途中まで私も歩いていいかな。」
さっきまでより少し小さな声でそう尋ねた葵。
「良いけど、葵の家こっちだったっけ?」
「うん。五年くらい前に引っ越したの。楓の家よりはここからもっと先なんだけどね。」
会わない間に変わっていた住所。連絡先を削除してはいないけれど、もしかしたら私の携帯に登録してある番号ではもう葵に繋がらないのかもしれない。
駅近くの飲食店街を抜けて、大通りに出た。車通りも人通りも多い、夜でも明るい道だった。葵は無言で隣を歩いている。どうして葵は私のあとを追いかけてきたのだろう。どんな気持ちで今並んで歩いているのだろう。
「あ、あそこのケーキ屋さん知っている?」
道の反対側に時々行くケーキ屋さんが見えたので、わざと明るい声でそう話しかけた。
「チーズケーキがすごく美味しいの。葵も、チーズケーキ好きだったよね。
「うん。昔、一緒に食べたよね。」
時々二人で高校の近くのケーキ屋さんに行った。大好きなチーズケーキを買って、二人ではしゃいで食べた。楽しかった。本当に、楽しかった。
「…私達、どうして会わなくなっちゃったんだっけ?」
このまま当たり障りのない会話をしながら帰ることも出来た。でも私は、葵を目の前にしたらやっぱり十四年前の真実が知りたくなった。葵は黙ったままだった。
―――仕事が忙しくて
あの時そう言った葵の言葉を鵜のみにする程私は鈍感ではなかった。でも私は葵を追いかけなかった。きっかけを作ったのは葵だったけれど、私がしたことも大差ないのだ。
「ごめんね、私無神経だから。気づかないうちに葵に嫌な思いさせていたのかな。」
そう言うと、葵は俯いていた顔を上げて首を横に振った。
「ずっと気になっていたの。だから、もし話せることなら話して欲しい。」
こちらに顔を向けた葵の目をしっかりと見てそう言った。葵は瞳を揺らして、それからゆっくりと顔をそむけた。
「…楓に連絡をしなくなったのは、二度目の流産をした直後だった。」
「二度目?」
「一度目は結婚式のすぐあと。プロポーズを受けて、結婚式の準備を始めた時に妊娠が分かった。悪阻もなかったし、仕事も問題なく続けられた。産休育休を使って仕事を辞めずに育てていこうって決めていた。」
葵は俯いた。
「子どもができたら、普通に産まれてくるものだと思っていた。楓も含めて、私の周りに流産を経験した人がいなかったから。」
私も花純を妊娠した時、流産してしまうことは考えなかった気がする。子どもができたら、中絶しない限り普通に産まれてくるものなのだと思っていた。
「結婚式が終わって二日後だったかな。安定期に入る直前で、出血して。慌てて病院に行ったけどもう駄目だった。」
それから数日後に、私は花純と日向を連れて葵に会いに行っている。
―――私も、母親になる日が来るのかな。
葵がそう言った日だった。私はあの日、葵に‘子どもは?’と尋ねた。
「また次があるって思っていたけど、楓と会うと時々苦しくなった。」
葵が流産したことなんて知らずに、私は子育ての愚痴ばかり言っていた気がする。
「二度目の妊娠が分かって、今度は心拍を確認してすぐに流産した。仕事上人の死には慣れているはずだったのに、自分の子どもの死は苦しくて仕方なかった。楓と話すのがしんどくなって、連絡できなくなった。その後も何度も妊娠と流産を繰り返したの。…もうあの頃は、心がボロボロだったな。」
葵はゆっくり立ち止まった。人通りは少し減って、私達の周りには誰もいなかった。
「ずっと家庭を作りたかった。子どもが欲しかった。仕事にやりがいはあった。ずっとやりたかった仕事が出来て充実していた。でもいつもどこかで、仕事を辞めて家庭に入った楓のことを羨ましいと思っていた。」
看護師として働く葵はいつもキラキラしていた。夢を叶えて、さらにその先へ向かって進んでいく。私には到底追いつけない所へどんどん進んでいく。自ら選んで調理師という仕事から離れたくせに、私は葵に置いていかれてしまったような気持ちになっていた。家事と育児に追われてボロボロの日は、葵と会うのが苦しかった。でも子どもを持たない葵に対して、ほんの少し優越感を持っていたのも事実だった。葵にそんなことが起こっていたなんて少しも知らずに。
「ごめんね、何も知らなくて。辛かったよね。」
私は葵の両手を強く握った。流産の経験もなく、愚痴を言いながら二人の子どもを育てる私には言えなかったのだろう。葵は昔から、悪口はもちろん自分の悩みやネガティブな気持ちもあまり話さなかった。私の話を、いつも優しく笑って聞いてくれていた。
「もっと葵の話をいっぱい聞けば良かった。ごめんね。本当にごめん。」
辛かったのは葵の方なのに、私の目から涙が零れた。私がいつも先に泣くから、葵は泣けなかったのかもしれない。
「この歳になってもまだ泣き虫なんだね、楓は。」
顔を上げると、そう言った葵が優しく笑っていた。
「ごめんね。私もずっと謝りたかった。でも今さら連絡する勇気もなくて。高校の集まりなら楓も来るかもしれないと思って、今まで結構積極的に参加していたの。だから、今日来てくれて本当に良かった。」
葵の目にも薄ら涙が溜まっているように見えた。
それから、家に向かいながらお互いにこの十四年間の出来事を話した。葵は救命センターから産婦人科に異動し、その後助産師の資格を取るために学校に通っていたと言う。そして総合病院を辞めて今は産婦人科の病院に勤めているらしい。子どもをもつことは諦めたと言う。不妊治療はしなかったそうだ。
「私は子どもをもつことが出来なかったけれど、たくさんの赤ちゃんが産まれる瞬間に立ち会うことが出来る今がすごく楽しい。」
やっぱり葵はキラキラしていた。私は今も給食センターのパートを続けている。年数も重ね、パートの中ではベテランになっていた。調理の仕事をしている私に、葵は「素敵だね」と言ってくれた。
「花純ちゃんと日向くんにもまた会いたいな。」
私の家の最寄り駅付近まで歩いて来た。葵の家はさらに三駅先にあるらしく、さすがにこの先は電車で帰るらしい。
「うん、会いに来て。」
葵の言葉が強い意志を持っているのか、社交辞令なのか私には確証が持てなかった。
「‘同級生なのにお母さんと全然違う!’ってびっくりされちゃいそう。」
私の自虐的な発言は昔から。いつも葵はほんの少し困ったように笑う。
「私も葵のことを羨ましいと思っていた。昔から、綺麗で優しくて勉強も出来て。私に無い物をたくさん持っていた。花純と日向が小さい時は、全力で仕事をしている葵に会うのが正直苦しい時もあった。」
そう言うと葵は一度だけ深くゆっくりと頷いた。
「高校の頃、よく話していたよね。楓は仕事を頑張りたい、私は早く子どもが欲しい、って。自分がなりたかった姿に相手がなっているんだから、そりゃ羨ましく思う時もあるよね。」
今なら分かる。そうやって思える。ただの無い物ねだりだったのだ。もし過去に戻れたとしても、あの時身ごもった花純を私はまた迷いなく産むと思う。そう思える程に私の人生は幸せだった。
「じゃあまたね。」
駅の入り口で葵を見送る。
「今日、会えてよかった。話が出来て本当に良かった。」
葵はそう言って笑った。次に会う約束はしていない。葵からの連絡は来ないかもしれない。
「葵。」
そう呼んで葵の腕を掴んだ私の顔を見て、葵は驚いた顔をした。
「楓、泣いているの?」
そう言われて自分が泣いていることに初めて気がついた。
「高校の近くのケーキ屋さん、またチーズケーキ食べに行こう。」
私はそれだけ言って、葵の腕から手を離した。
「うん、絶対に行く。」
葵は力強くそう答えて、手を振りながら駅の中へ入って行った。
「お母さん、顔やばいよ。」
帰宅した私の顔を見るなり花純が声を上げる。洗面所に連れて行かれた私は、鏡で自分の顔を見て驚いた。
「パンダじゃないね。もうおばけだね。」
久しぶりに化粧をしっかりした顔で二度も泣いたせいで、私の顔はひどいことになっていた。あまり人とすれ違わなかったとは言え、この顔で駅から歩いて来たと思うと急に恥ずかしくなった。
「何かあったの?」
そう尋ねる花純は私を心配してくれているようだった。とても優しい子に育ったと思う。
「大切な友達と再会出来たの。それが嬉しくて。」
嬉しさだけではない。懐かしさや後悔、いろいろな思いが混ざった涙だったと思う。
「お母さんが通っていた高校の近くに、その友達とよく行った美味しいケーキ屋さんがあるの。今度買いに行こうね。」
「良いけど、また太るよ。」
「今、歩いて帰って来たから大丈夫。」
そう言うと花純は呆れた顔で笑った。
その夜私は、葵と花純と日向と一緒にあのケーキ屋さんでチーズケーキを買って食べる夢を見た。大きくなった花純と日向を見て、葵が笑っている。現実だったらいいのにと思いながら目が覚めた。
今日は月曜日。また慌ただしい一週間が始まる。夫と花純の弁当を作りながら、まだ誰も起きてこないキッチンで私は携帯を持ちメッセージを作成していた。昨夜の夢が現実になるように何度も悩み考えたメッセージをようやく送信出来たのは、パートの休憩が終わる頃だった。
葵に伝わるだろうか。私はあの頃のようにあなたと笑い合える関係になりたい。そして一緒にまたあのチーズケーキを食べたい、と。
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