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ざわざわり。
森の樹木が蠢いている。月へ獣が哭いている。夏の夜風のひゅるりひゅるり。
サアーッと梟が舞い降りて、音もなくネズミの子を攫っていった。ジジィ、唸るように、油蝉の声がひくく響く。
…まっくらな山路。
透き通るような緊張と、青々としげる葉っぱの香り。まだらに月灯りの冴え渡る土の上を、歩む黒い影がある。大きくのびる長い影。のっそりと。それは迷いなく進んでいく。…どこへ? 熊五郎の洞窟へ。
影がひたりと歩みを止める。ゆっくりと、片腕を持ち上げて。こつ、こつ。ちいさなノックの音が響いた。
♢
こつ、こつ。
熊五郎は眠っていた。ふっと風に掬いあげられるように目が覚め、そして慌てて起き上がる。体についた土を軽くはたいて、闇の中でマッチを探る。あたふたと探り当て、シュッと擦って、ランプを灯す。
(…夜行性のお客さんだ…)
熊五郎はのっそりと立ち上がった。眠い目をこすりながら歩き出す。
「はぁい、いらっしゃいませ。どなたでしょうか?」
商売人特有のどこか気の抜けた明るい返事をしながら、熊五郎は店の入口へと急いだ。夜風が吹いている。月灯りが綺麗に差し込んでいた。店の看板の影がゆらりと蠢く。そこに、誰かが佇んでいる。
つうん、とふいに仄かな薔薇の香りが鼻をついた。…だれだろう?ふくろうの少女。ハクビシンのお爺さん。やまあらしのおばちゃん。熊五郎の頭の中には、すでにたくさんの予想が浮かび上がる。
「どうぞご遠慮なさらずに。来店したからといって、勝手に商品を押し付けるようなことは致しませんので……」
熊五郎は、そう呼びかけながら店の入口へ出た。
「———熊谷治五郎竜之助。」
はっと。熊五郎が目を見開いた。一瞬、空気が張り詰めた。…彼の手が腰へぴくりと動くような仕草をして、そしてすぐに彼はそこに刀のないことに気がついた。狼狽して、決まり悪そうに唇を噛む。
…月の煌々と照らす夜に。逆光となった暗黒の影は、気味が悪すぎたのだった。例えその正体が、どんなに美しく穏やかなものだったとしても。
「…うふふ。私を忘れた?」
黒い熊が佇んでいた。
紅い花を髪に飾っている。緑色の蔦を右の手首に巻いて、そこには青ざめた陶器の玉がいくつも並んで垂れていた。美貌の熊の女。彼女はすらりと背すじを伸ばすと、おかしそうに口元を隠して微笑んだ。
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