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熊五郎は歯切れ悪そうに返事を返した。
「いや……萩姫の桃さん。忘れるなんてことは。」
「いかにも困惑って顔をしてるわよ、五郎。私がここに来た理由、知りたいんでしょう?」
漆黒の毛を波打たせ、“桃“ と呼ばれた熊の女が言う。その薄茶の瞳の色は、どこまでも真剣だった。彼女はひとつ息を吸って、ため息をつく。
「一言で言えばね。あなたを連れ戻しに来たのよ。」
「……え?」
熊五郎——もとい、熊谷治五郎竜之助は、まったく頓狂な声をあげた。萩姫が、じとーっと恨みがましげに彼を見上げる。ぺろりと紅い唇を舐めると、優雅に腰へ手を当てた。
「あなたの罪が赦されたって言ったのよ。もうちょっと喜んで頂けないのかしら。」
「いや、そう簡単に言われても…」
熊谷は戸惑って眉根を寄せる。
……何十年も昔の話である。
彼がこの山へやってきた所以は。彼は、故郷の山を棄てて逃げてきた過去を持っていたのだった。罪人として、あやうく牢屋へ放り込まれそうになり。一部の過激な者たちは、彼を死刑にすべしとまで主張した。そして彼が向かい合っている彼女は———そういった強硬派の筆頭、紅山氏の族長……その娘であった。
あの同い年の少女だった萩姫が。熊谷を死刑にすべしと叫んでいた族長の影で、隠れるように黙って正座をしていた彼女が。一匹の大人として熊谷の目の前に立って会話をしている。夢だとしか思えなかった。
「あなたのやったことは、罪じゃない。今では誰もがそう認めてるわ。」
「…そこに関しては僕もずっと主張してたことだし、もちろん譲る気はない。でも……なぜ?みんなの心が変わった理由が全然わからない。」
はあぁ、と。萩姫は大きなため息をついた。
「私が頑張ったのよ。」
「………へ?」
「だから、父上が他界したあと、私が族長を継いで。テンテコ舞いの猛烈な忙しさの中、ない暇を見つけては色々頑張って根回しして。丸一年かけて準備してようやく山会議に漕ぎつけて。あっちこっちの他の族長の前で好きでもない演説をして。ようやく、あのロクでもない規則を変えることに成功したのよ。」
ぽかんと。
熊谷は開いた口が塞がらなかった。ひと息に言い切った萩姫が、ヒュッと息を吸い込んで天を仰いだ。
「いや、僕はそこまでしてもらいたいと思ったことは一度も…」
「私の努力を否定するつもりかしら?」
「……っうぐ。」
しゃらりと。萩姫が青い手首の玉飾りを鳴らす。ふと真面目な表情になる。萩姫は手品のような手つきで中指を弾くと、いきなりパッと一枚の扇を取り出した。
「…これ、もしや孔雀の羽根?」
「そうよ。」
ずっと背中へ隠し持っていたらしい。急に飛び出したそれは、あまりにも鮮やかだった。織りなす妖しげな青緑と黄。ぎらぎらと美しい目玉紋様。抗いがたく魅入ってしまう完成された “美“ の塊。孔雀の羽根を一枚ずつ集めるのに、一体どれだけの手間と時間がかかるのだろう……それに、萩姫は、あろうことか———
————火をつけた。
熊谷が仰天して目を上げる。ちょうど、萩姫が燃え殻のマッチを地面へ放ったところだった。無造作にぐりぐりと足で踏み躙って燻る火種を消す。そうしている間にも、孔雀の扇は燃え続ける。
途中、頃合いを見計らって萩姫はふうっと焔を吹き消した。火が消えた跡に、シュウゥと一条の煙が立ち昇る。
あっと熊谷が息を呑んだ。
淡々と。萩姫が口を開く。
「禁断の芸術。生き物の一部を燃やすこと。………炎は邪のエネルギー。であるから、作法を守らねば魂を抜いて雷の祟りへと変貌させる邪悪な呪いになってしまうもの。あなたはこの重大な掟を破った。」
ふぅっと。熊谷が地面を俯いた。鈍く光る灰色の眼が、ゆっくりと閉じられる。
しばらく黙った後に、「…だけど、」と彼は呟いた。
「…作法だなんだの仰々しく言ってるけど。でも、やってることはさ、つまりただの料理だよ。僕たち熊は料理に火を使う。手順を踏んでるとか、生きるための行為ならば問題ないとか。そんな御宅は聞き飽きた。焼き鮭はよくて、なんで綺麗な玉虫の翅を混ぜた蝋燭はだめなんだ? 何も変わらないだろう。全く理解できない。」
とうとうと喋る。熊谷の眼に、うっすらと涙が滲んでいた。握りしめた拳。何十年も昔の情動を、彼の抑えてきた感情の昂り。森が、そして萩姫が。黙って聞いていた。
「萩姫の桃さん…いつか、あなたの父上は言ったね。“一寸の虫にも五分の魂があると言う。——他者の魂を玩具のように扱ったお前には切腹こそがふさわしい“ 」
熊谷の故郷は、ツキノワグマが武士として君臨する山だった。
皆が礼儀正しく、規律を重んじ、伝統と自然崇拝の儀式の中に、あらゆる生活が組み込まれていた。
「……全然納得できない。あんな理論っておかしいよ。武家の形式と伝承。始まりは正しい考えだったはずなのに。どこか解釈が歪んでる。…僕のやったことはただ、虫の死骸を美しい芸術にして、自分にできる供養をしただけじゃないか。」
「そうね。けれどもあなたは異端児だった。」
「異端で結構。逃げ出した僕を、本当に本気で追う者はいないことはわかってた。遠くの地へ行ってしまって、適当に名前を変えれば、もう安心だったよ。………僕は要領がいいからね、この新しい土地でもすぐに溶け込んだ。この森に骨を埋める覚悟もとうに出来てる。」
暗に、戻るつもりはないと滲ませて。少しくらい故郷の空気が変わったくらいで、すべての人生をそこでやり直すつもりにはなれないと。熊谷は拳を握りしめる。
ふぅ、と息をつく音が響いた。
萩姫が、熊谷に並んで月を見上げた。満点の星空だった。銀の粉を蒔いた濃紺のキャンバス。月が、真っ白な宝石のように、煌々とそこに在る。あらゆる澱みも浄化してしまう魔の輝き。
萩姫は、ふと気づいたといった様子で。あらためて洞窟の入口の看板を見た。雨晒しの白い板に、「れんたるしょっぷ熊五郎」の鮮やかな青いペンキ塗料が染めてある。丸みを帯びた筆文字は、どこか愛嬌があった。
「”れんたるしょっぷ熊五郎“ …うふふ、いい名前じゃないの。」
萩姫が、くつりと笑った。ふいに、漆黒の睫毛がくるりとこちらを向く。彼女は、一部が黒焦げになった孔雀の羽根の扇をバサバサと煽いだ。灰を振り落としたそれで、さっと口元を覆い隠す。……目元をおかしそうに歪めて、熊谷へ語りかけた。
「あのね、私も借りたいものがあるの。」
熊谷は面食らったように目を瞬いた。一瞬、躊躇って口を開く。
「いいけれど、僕の店はすこし特殊で…」
「知ってる。道々この森の住人に話を聞いてきたから。うふ、あなたも粋なこと考えるのね。」
萩姫は薄く笑って、すいと堂々顔を上げた。パッと孔雀の扇を後ろ手へ持ち替える。くるりと踵で回って、熊谷の真正面に立つ。薄茶色の瞳がきらりと輝いた。悪戯っぽい少女の笑みが、垣間見えた。
「私が借りたいのは、あなたよ。熊谷治五郎竜之助。」
「え……」
———-れんたるしょっぷ熊五郎は、品物の返却を要求しない。
これは大原則である。
永久に。
…借りたものは、顧客のもの。
ただ借り手が自由に芸術を返せばよい。
萩姫は、心底楽しそうに笑う。
「そうね。芸術のお返しは————
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