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その近藤の言葉は懇願とも命令とも取れない複雑な色合いを持っていた。
「しかし、それだと俺はどうなる?お前の理屈でいえば、お前はお前を殺すため、お前を知る人すべてを殺さなきゃいけないんだろう?もし俺がお前を知る者すべてを殺したとして、最後に俺が残ってしまう。まさか最後にお前が俺を殺そうとでも思ってるのか?」
殺し屋同士の殺し合い。二人の殺し屋が銃を突きつけ合って引き金を絞りながら対峙する。映画なんかじゃよくあるシーンだが、実際にそんなことになったらたまったものではない。殺し屋を生業としている的場にとって、殺し屋同士の対立は笑い話にもならない死活問題だ。この世界で生きていくためには決して忘れてはならい大切なことだ。
「おいおい、冗談のつもりか?あんたらしくもない。まさか忘れたのかよ?俺がこの肉体を手に入れた代償として死ねない身体になっちまったように、あんたもその狙撃能力を手に入れた代償として、なんにも覚えてられない脳みそになっちまったってことを。そんな大事なことまで忘れちまったのか?」
近藤の言うとおりだった。的場は能力を得た代償として、脳みそが異常をきたした。視覚と視野の拡張による、視覚情報の異常なまでの増大。その視覚情報を処理する的場の脳はあまりの情報量に耐え切れずにパンクしてしまった。的場の記憶情報はわずか一日分しか脳に記憶されない。それ以上を記憶すると負荷がかかりすぎてしまうので、自動的に脳から記憶が消去されていく。視覚情報だけで他の人間の数百倍あるが故の自衛手段として、的場は健忘症を患っていた。
「自分がなにも覚えてないことくらいは、覚えているさ」
自嘲するように薄く笑い、的場は胸ポケットからメモ帳を取り出した。
「これが俺の記憶のすべてさ。俺が生きてくのに最低限必要なことが書かれている。俺の症状、俺の職業、未処理の仕事案件、などなど。細かなどうでもいいことは書かれてないがな。全部書いてたら何ページあっても足りなくなるからな」
的場はメモ帳をつまむようにしてヒラヒラと振ってみせる。さほどの厚さはなく、あってもせいぜい百ページ程度といったところだった。
「そこに俺のことも記録されてるってことか」
「ああ。俺は寝る前に必ずこれをベッドの横に吊り下げておく。起きたら自動的に眼に入るようにな」
的場にとっては毎朝のルーティーンということになるが、的場は起きる度に昨日も一昨日もそのルーティーンをこなしていることは記憶にない。おかしな言い方だがいつだって初めてのルーティーンだ。
「ガキがクリスマスに靴下吊り下げて置くみたいなことしてるんだな」
近藤が小馬鹿にするように笑った。
「そうしないとお前のことも忘れてしまうからな」
「しかし、メモ帳とは随分と古典的な記録媒体を使ってるんだな。アナクロ趣味か?」
茶色のトレンチコートに黒革のロングブーツにサングラス。そんな出で立ちの近藤にだけは言われたくないと的場は思ったが、口に出すのはやめておいた。
「なんだかんだいって、これが一番使い勝手がいいんだ。例えばモバイル端末みたいな電子機器だと、そこに書かれた記憶が本当に自分が打ち込んだものかの確証がない。俺がまだ殺しの代金を受け取ってないにも関わらず、セコイ依頼人が料金受け取り済み、と打ち込んだとしたら、俺はそれを信じるしかない」
「なるほどね。メモ帳なら筆跡が残るってわけか」
「他のページの自分の字との違いにすべてを忘れた俺は気づくだろう。よほどの間抜けでなけりゃな」
全てのページを書き換えられてしまったとしても、新たにメモに必要な記憶を記入する際に、書き換えられた全ページとの字の違いに気づくはずだ。もしそうなったとしたら自分の今ある記憶は全部が嘘っぱちということになるので一大事なのだが、その時はその一大事を招いてしまった己の愚かさを嘆くしかない。的場は自分がそんな間抜けな人間でないと願ってやまない。
「あんたは間抜けじゃないさ。一流の殺し屋だ。誰にも気づかれず、本人すら気づくことなく、ターゲットを始末していく。そしてあんたはそれを忘れていき、自分が殺ったことに気づかない。だから俺はあんたに頼むんだ。あんたは俺にまつわる全ての人物を殺し尽くし、最後に残ったあんたは俺を忘れ、俺はそれでようやくこの世から精神的に死ぬことができるんだ」
近藤は陶酔するように言った。どんなに乞い願ってみても決して届かなかった望みに、ようやく手が届いたというような恍惚的な表情だった。
「料金は払えるんだろうな?同業者だからって、ビタ一文もまけたりはしないからな」
「ふん、あんたみたいな一流の殺し屋相手に、そんな野暮なことはしねえよ。にしても意外とケチくさいんだな」
鼻を鳴らすように近藤は言った。
「俺たちみたいなのが生きてくのには、なにかと物入りだからな」
ため息まじりの的場。
「ちげえねぇ」
近藤は胸ポケットから、いかにもハードボイルドなアイテム面したウイスキースキットル(ステンレス素材のウイスキーボトル)を取り出し、ぐぃっと一飲みした。近藤もかつては暗殺稼業に勤しみせっせと金を貯め、いつか法外な料金のかかる自分個別のワクチンを開発してもらうと思ってあくせくと人を殺し続けた。いつかまともな人間に戻ろうと、己の手を汚し死体を積み重ねた。
しかし殺しの度に残る確かな死の感触が、近藤の身体に確実に刻み込まれ、染みつき、浸食し、やがて近藤を腐らせていった。その汚れを洗い流すために、近藤は薬や酒に頼るしかなく、殺した死体は積み重なったが稼いだ金は積み重なることなく、むしろ目減りしていった。ワクチンは遙か彼方へ遠ざかり、まっとうな人間への回復は遠のくばかりで、やがて近藤はその道を諦め、死ぬことを目的として生きるようになった。そしてたどり着いたのが的場だった。
「これさえ飲めば、一時嫌なことも全部忘れちまえるからな」
「そうなのか?」
酒はやらないんだ、と的場は言った。
「そりゃそうさ。酒は全てを忘れさせてくれる。しかしあんたは格好もなんだかぼろっちいし、なにに金使ってるんだ?酒はやらないんだろ?ってことは、やっぱりこっちか?」
近藤は下衆な笑みを浮かべながら小指を立てた。
「なにせ酒の味も女の味も、記憶がなくてな。忘れてるからやりたいとも思わないんだ」
なんらかの成功体験やポジティブな印象の記憶があるからこそ、人は同じような経験を繰り返そうとするのだろう。的場にはそれがないから何かを積極的にやりたいという感情が抜け落ちていた。ただ毎日生きるために必要な作業を事務的に処理していくだけ、的場の日常はそのように過ぎていく。
「そりゃご愁傷様。いや、かえってそっちの方がいいのかもな。やる度にチェーリーボーイスピリットで臨めるってことだろ?毎回がファーストキスってことだろ?最高じゃねえか。あの甘酸っぱいドキドキ感、もうとっくのとうに記憶の彼方に忘れさっちまった。また味わえるんなら味わいてえよ。羨ましいったらありゃしねえ」
健忘症という症状に少なからず不便を感じてきた的場は、自分が羨ましいと思われる対象であるということに、驚きを覚えた。殺伐さが己のなかに積み重なり耐えきれなくなった近藤と違い、的場にはなにも積み重ならない。積んだ先から必要最低限名ことだけを残し全てを忘れていく。そんな日々を送るにつれ、的場の感情はなにに対してもさざ波程度のかすかな動きしか示さず、なにもかもが希薄化し、常に薄膜一枚隔ててこの世界を眺めているような曖昧な日々が過ぎ去っていくだけだった。そんな的場にはなんの娯楽も必要がなく、なんの楽しみも味わうことができなかった。必要なのは飼ってる猫の餌代くらいのものだ。いや、それが本当に必要なことなのかは的場には今となってはわからないが、メモ帳の一番最初にそう書いてあるので、そうなのだろうと的場は思い、今日も今日とて人を殺して猫代を稼ぐ日々を送っている。
「しかしそうなると一体なにに金使ってるんだ?」
「さてな、使った端から忘れていくんでな」
「意外と貯め込んでたりするのか?ひょっとして……」
的場のメモに、自分用のワクチンのために金を貯めろとは書かれてない。そういうワクチンが製造可能だということのみが書かれてるにすぎない。ということは、少なくとも自分はワクチン目的に金を稼いでいるわけではないのだと、的場は判断している。
「まあそりゃそうだよな。ワクチン代を貯めるとなったら、一体何人殺さなきゃいけないんだって話だからな。過労死レベルで人を殺していかなきゃ稼げない額だ。そんだけ大量に殺してなお、気晴らし代やストレス解消費用を一切費やさないで、ようやく到達できる額だろうからな」
近藤ほどの異常能力をもってすれば、殺し以外のなんらかの犯罪行為で大金を稼ぐことは出来ないわけではない。銀行強盗や裏組織が貯め込んだ大金の強奪など、それらに手を染めればワクチン代を手にすることはできただろう。しかしそれでは元の人間に戻れたとして、警察や裏組織から常に狙われることになり、まっとうな生活を送ることはできない。結局生きていくには、殺し屋として裏社会で生きていくのがもっとも安全に金を稼ぐ方法だった。近藤の異常すぎる殺しの手並みは警察には理解できず、足取りが辿られることもなかった。
「まあ金ってのはいつの間にか減ってくもんだからな。家計簿でもつけた方がいいんじゃないか」
からかうように近藤は言った。
「善処しよう」
極めて真面目に、的場は首を縦に振った。
こうして的場は、近藤の依頼を実行することになった。六日間を費やして近藤の知人や友人を始末していき、先ほど殺したのはかつて近藤の妻だった女性らしい。
近藤の携帯がビルの屋上に鳴り響いた。
「もしもし。ああ、そうか。分かった」
なんの感情も感じさせない抑揚のない声で近藤は言い、通話を切った。
「知り合いからだ。確かにあんたは俺の元妻を殺ってくれたみたいだ。さすがだな」
「だから言っただろう」
的場の眼には死体のある場所から遠く離れたこのビルの屋上からでも、近藤の元妻が倒れている様子がありありと見えるのだが、近藤にはどんなに眼をこらしても見ることはできない。遺体を眼にしないですむのは、近藤にとってはありがたい話だった。これ以上死の匂いを嗅ぎたくなかったし、自分と親しい者であればなおさらだった。
「で、だ。次にやって欲しいのは、今電話で元妻の死を知らせてくれた知り合いだ」
近藤は的場に、その知り合いという男の情報を説明した。どのような仕事でどのようなスケジュール、どのような生活を送っているかなど。的場はそれをメモに書き写し、その情報をもとに自分の能力を利用した狙撃計画を練り上げていく。
「いいヤツでな。殺すには惜しいヤツだ」
「自分で殺しを依頼しておいてよく言うぜ」
「仕方ないさ。あいつは俺とは腐れ縁みたいなヤツだからな。殺しでもしないと絶対に俺のことを忘れてくれたりはしないだろうからな」
「そいつが生きてる限り、そいつの中でお前さんが生き続けてしまうってわけか」
「ああ。人ってのはそういうもんだ。俺は死ぬことはでいないが、もし仮に死ぬことができたとしても、俺のことを誰かが覚えている限り、俺は生きてくことができるんだ。本来なら人はそれを望むだろうけど、死ぬことのできない俺にはそれが耐えられない。死にたいのに死ねない俺は、誰からも忘れ去られることで、ようやく仮初めの死を手にすることができるんだ」
「その理屈だと、そもそも俺の中には誰も生きてないってことになるんだろうな」
「……あんたはそもそも、生きながら死んでるような存在なのかもな」
近藤は少し寂しそうな顔をした。
「生ける屍ってことか?」
的場はなんの表情の変化をみせずに淡々と言った。
「さあな、俺にはわからん。全てを忘れられるってのは、煩わしい記憶に悩まされることもないし、羨ましいといえば羨ましい」
近藤のその顔は、決して羨ましいものを見るような顔をしているようには的場には見えなかった。
「じゃ、また明日な」
「忘れんなよ、俺のこと」
「心配するな。メモに書いてあることは俺は忘れない」
「確認なんだが、俺の依頼が全部終わったら、あんたはメモを破棄してくれるんだよな?」
「それがお前の望みなんだろ?こっちにしたってお前のことは覚えておきたいほど俺にとって大切なことじゃない。大切じゃないことまでメモに残したりはしないさ。残しとかなきゃならないのは俺が生きてくための最低限のことだけだからな」
「そうか。それなら一安心だ」
そう言ってその日、二人は別れた。
的場はその夜、次のターゲットとなる近藤の知り合いの男の行動スケジュールから、一番的確かつ絶対誰にも見つかることのない狙撃ポイントを割り出して、その詳細をメモに残し、眠りについた。翌朝には例のごとく前の日にあった全てのことを忘れていたが、大事なことは全てメモに書いてあったので的場はそれを丹念に読み込み、自分のなすべきことを理解することができた。
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