赤い糸

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赤い糸

朝、起きたら小指に赤い糸が巻きついていた。 これは……自分にしか見えない、そして、運命の人と出会うタイミングで出現するという、あの赤い糸ではないか。 震える手を掲げる。 たしかに、右手の小指の付け根にしっかりと赤い糸が巻きついている。 とうとう私にも運命の人があらわれたのだ。 次々と友人たちに赤い糸があらわれ、ゴールインしていく様を見せつけられながら、まだかまだかと自分の小指を触る日々。 三十五歳にしてようやく運命の人があらわれた。 「やったー」   部屋の中を飛び回り、小指をながめてはニヤついた。 そんなことをくり返していたら、赤い糸が釣り糸のように少し引っ張られた。 行動せよ! ということね。 赤い糸があらわれたからって、家でじっとしていたら、運命の人に出会えない。   すぐに出かける準備をした。 最近出始めたシミをファンデーションで念入りに隠し、チークをいつもより濃くいれた。 白髪がないか一本一本確かめるように髪の毛を触り、お気に入りのワンピースに身を包んだ。   家を出て赤い糸の先をたどった。 駅前のコーヒーショップに到着すると、糸が二回引っ張られた。 店内は、出勤前のサラリーマンが多かった。 この中に運命の人がいる。 もしかしたら、店員さんかもしれない。 カウンターの向こうには、若い男性が何人かいた。 心臓がドキドキしている。 緊張しながら、赤い糸をたぐり寄せた。 糸がピンと張った。 その先には、パソコンを開いている男性がいた。 しかもイケメン。 年齢は、おそらく二十七か二十八歳くらい。 だいぶ年下だけど、運命なのだから年齢なんて関係ない。   男性に近づくと、目が合った。 彼が微笑んだので私も上品に口角を上げた。 彼も分かっているのだ。 私が運命の人だということが。 「あの……」   男性につながる赤い糸を示すと、彼は言った。 「絡まってますね。すいません。今ほどきますから」   彼は、糸を器用にあやつりほどいた。 するするっと糸がゆるみ一気にたるんだ。 次の瞬間、彼の糸がピンと張り、その糸の先をたどると、そこには長身のきれいな女性が立っていた。 「お待たせ」   彼女は、私にチラッと視線を向けると彼に言った。 「知り合い?」 「糸が絡まってたんだよ」 「私のせいかも。ごめんなさいね」   絡まるってなによ。 赤い糸のあるあるなの?  肩を落とし、その場を立ち去り通勤電車に乗り込んだ。    糸がたるんだまま会社に到着した。 運命の人は社内にいるのだろうか。 そうだとしたら、どうして今日という日に赤い糸があらわれたのだろうか。 社内の人間ならば入社したその日に赤い糸があらわれるのではないか。   そうか。新入社員だ。 今日は研修が終わった新入社員が配属される日ではないか。 年下になるけれど、運命なのだから仕方がない。   オフィス内をきょろきょろしながら、フレッシュな人物を探すがそれらしき人物は見当たらない。 覇気のない顔をしたふにゃふにゃした社員ばかりだ。   始業時間を三十分過ぎたとき、外線が鳴った。 「田中だけど!」   受話器の向こうから大きなダミ声が耳をつんざき、思わず受話器を耳から離した。 「取引先に寄ってから出社するからお昼頃になるよ」 「はい、分かりました」   受話器を置いて軽く舌打ちをする。 頭頂部は常に脂ぎっていて、お腹は妊婦のように張り出し、声がでかくてガサツで空気が読めない上司からだった。 また寝坊だな。 飲み過ぎて寝坊したときは、取引先に寄ってから出社すると嘘をつく。 せっかく運命の人と出会えるというのに、上司のダミ声で一気に気分が下がった。 「新入社員を紹介します」   隣の部署から声が聞こえた。 声のする方を見ると、リクルートスーツに髪を後ろで一つに束ねた真面目そうな女性が緊張の面持ちで立っていた。   なんだ。女か。 と思ったそのとき、私の小指が少し引っ張られた。 彼女は、私の方をチラッと見て微笑んだ。 えっ! 嘘でしょ。 私の運命の相手は女の子?  そういう可能性もゼロではない。 しかし、私の恋愛対象は男性だ。   しばし、考え込む。 そうか、そうなのか。同性か。 今まで考えたことがなかったな。 「お姉さん」   気づくと、彼女が目の前に立っていた。 お姉さん?  「覚えてませんか?」 彼女は私を見ながらニコニコとしている。 記憶の糸をたどりながら頭をフル回転した。 お姉さんと私を呼ぶということは友人ではない。 親戚は年上ばかりなので、お姉さんと呼ばれることはない。 「弟さんの……」 彼女の言葉に記憶がよみがえった。 「あっ、弟の彼女の……」 「はい。その節はお世話になりました」   弟が中学生だったときの彼女だった。 家に遊びに来ると、彼女は私をお姉さんと呼び慕ってきた。 勉強を教えたこともある。 その彼女が今、目の前に立っている。 しかも、私の運命の相手として。   弟になんと説明をすればいいのか。 あなたの彼女だった人が私の運命の人で人生のパートナーになりました。 彼女とやっていけるのかということよりも、複雑な人間関係の方が気がかりだった。 「まさか同じ会社で再会できるなんてうれしいです」   無邪気な彼女は、私とつながった赤い糸に気づいていないのだろうか、と糸を確認すると糸はたるんだまま、彼女にはつながっていなかった。 「糸……」 「えっ?」 「何でもない。よろしくね」   運命の相手は彼女ではなかったことにほっとした。 糸が引いたことは勘違いだったようだ。 朝からハラハラ、ドキドキさせられっぱなしだ。 赤い糸があらわれた日はそういうものだといつか友人が言っていたことを思い出した。 「うちの部署は今年新入社員いないらしいよ」 コーヒーを持った同僚が私の背後でささやき立ち去った。 新入社員じゃないということは、来客か、それとも外部の人間か。 そうだ。今日のランチは、イケメンがたくさんいるカフェに行こう。 あのイケメンの中だったら誰でもいい。   午前中が長かった。 何度も時計を見ては、イケメン一人一人の顔を思い浮かべ、妄想に費やした。 「いやいや、まいった」   ダミ声が社内に響き渡った。 嘘つき上司が出社した。 そのとき、私の赤い糸がピンッと張った。 えっ! まさか。 上司が運命の人?  そんなわけない。 上司は既婚者だ。 子どもだっている。   恐る恐る糸をたぐった。 上司はテカテカ光る頭をタオルでぬぐっている。 目の前までたどり着くと、上司は言った。 「そうみたいだね」   がはははと大きな声で笑いながら、上司は小指を天に掲げた。 その赤い糸は、私につながっていた。 「だって、部長には奥さんが……」 「今、離婚調停中なんだよ」   嘘でしょ。こいつが運命の人?  五十代のバツ2、二度の離婚は浮気が原因。 「もうすぐ離婚するから待ってってね」 「なんでやねん!」   私は、赤い糸をハサミで切り刻んだ。
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