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浮気
『最後の文章だけ信じて お願い』
笑顔が綺麗だなって思った。それがこの心臓の動悸の始まりで、全ての優先順位が塗り替えられた瞬間だったんだ。
僕が通う大学は酷く退屈で、僕は窓の外に見える雪を見ながら溜め息をついた。雪というのは落ちてくる間は綺麗だけれど、地面に触れてしばらく経つと色が変色してしまう。賞味期限1日の淡い白色に想いを馳せていると、僕の彼女が隣の席に座った。茶色の髪に黒のトレンチコートが特徴的な彼女は、僕の自慢の彼女だ。
「おはよう。今日も寒いね」
「雪も降ってるからね」
彼女はコートを椅子にかけて僕の顔を見つめる。僕は咄嗟に目を逸らした。
「なんで目、逸らすの?」
「……別に」
教授が部屋に入って授業が始まる。僕が何故目線を逸らしてしまったのか、自分でも分からないまま。
……授業については何も覚えてない。何の為に大学に入ったのか呆れられると思うけど、僕も分からない。周りと別の行動を取りたく無かったし大学に入って卒業すると生涯賃金が上がるって情報に踊らされてるだけかもしれない。少なくとも真面目に生きるって選択はないって事さ。
それにこれは恥ずかしい話だけど、僕に夢なんて輝いた宝石みたいな物は無いんだ。小学校から友達や記念の本にだって「公務員」以外って言ったことは無いんだ。それも憧れから来る感情じゃなくて惰性と給料の高さって欲望だけなんだ。僕の心臓は生命の維持をする役割は立派に果たしてくれていたけど、恋愛のドキドキとかいう感情に関してはとっくに機能を失っていたんだ。
「って感じで始まる話はどうかな」
「うーん陳腐ですね」
サークルで談笑する彼女は僕の1つ下の後輩で、現在2人しかいない文芸サークルの副部長みたいなものだ。名前は知らない。
「この手の語りで始まる話って星の数ほどあるんですよね。無気力で将来の展望もない人が何かを手に入れる話。特に先輩みたいな目をしている人がよく考える典型的な例です」
そう辛辣に意見を並べる後輩の短く整えられたボブの髪にホコリがついていたから、僕は持っていたシャーペンで除けてあげると、彼女は怪訝な目線を僕にぶつけた。
「……先輩って彼女、いないんですよね?」
「……ああ」
本当は後輩に語った通りに茶髪の彼女がいるけど、僕は嘘をついた。小説に自分の彼女を使ったなんて後輩が聞けば、いつもみたいに怖い叱責が待ってるに違いない。『フィクションとノンフィクションを混合しない』が後輩のポリシーなので、恐ろしい事が待ってるのはもう履修済みだった。
「先輩と私の2人しかいないのにサークルって面白いですよね。サークルって呼ぶよりラインって呼んだ方がいいかも」
「それなら誰か友達でも連れてきたらどうなんだ。1人でも増えたら立派なサークルになれるぞ」
「……小説書いてるの知ってるの先輩だけなんですよね」
俯きがちにそう後輩はこぼした。僕はその陰の入った表情に何も答えられなかった。
「今はまだラインでいいですよ。先輩だけが私の小説を読めばいいんです」
そう後輩ははにかんだ。僕はその表情を綺麗だなんて思ってしまった。
心臓のもう1つの機能が、動き始めてしまっていた。ドキドキって。
「先輩の小説はどれも似たようなものです。そのうち頭打ちになりますよ」
「じゃあ具体的にどうすればいいんだ?」
僕達は休日に図書館に来ていた。彼女とのデートを断ってこっちに来たのは、「先輩に小説の真髄を教えてあげます!」なんて冗談めいた言葉と笑顔に騙された訳じゃない。
「取り敢えず、私の短編小説を読んでみて下さい」
トートバッグから原稿用紙に書かれた小説が顔を覗かせた。後輩はその小説を僕に渡して、嘲りめいた表情で僕に話しかける。
「先輩に私の高尚な文が理解できるとは思いませんけどね」
「……読んでやるよ」
僕は文句の1つくらい言ってやろうと思って後輩の小説に読み耽った。でも非の打ち所は無かった。渡された3つとも抜群に面白かったし、自分の語彙の足りなさに戦慄もした。つまるところ、完敗だった。
「……面白いな」
「でしょ?」
自慢げな顔で勝ち誇ってくる後輩に少し苛立ちが募ったが、僕は敗北者の身。どんな負け惜しみをしても、それは負け犬の遠吠えにしかならない。
「私の小説にあって、先輩の小説に無いものって何だと思いますか?」
「え?語彙力とかじゃないか?」
「それは当然ですけど……先輩の小説はいつも同じ展開なんです。大体が青春の話で起承転結の展開も似ている。レパートリーが少ないんです」
確かに後輩の言う通りだ。似たような文章しか書けないのは僕の悪癖で致命的な欠陥だ。
「たまには違うジャンルとか書いてみたらどうですか?新しい扉が開かれるかも」
「……そうだな。考えておくよ」
僕はこの意見を聞いた時に次の書く物語を決めた。後輩が嫌っているフィクションとノンフィクションを混合してやろうと思った。後輩に「面白い」って言葉を絶対に言わせてやろう。
題名は『浮気』にした。この時既に僕は後輩に、どうしようもない気持ちを持ってしまっていた。だから浮気だ。
今更だけど君が今まで読んできた文章は全て僕が書いた文章だ。そしてこれから読む文章も僕が書く『小説』だ。
僕は手持ちのスマホで小説を書き始めた。彼女の髪の毛は黒髪だったけど茶髪に変更した。後輩の名前は彩香だったけれど、あえて知らないという設定にしてお茶を濁す。できるだけ現実にあった会話を採用して、その中に小さじ1杯のフィクションを入れた。こうやって自分がどうやって小説を書いたかも小説として書くことで、エッセイと物語の垣根を壊そうとした。
『先輩、愛してます』
流石にこの台詞は削除した。告白というのは雅に遠回しに伝えるのが良いのだ。僕の彼女と遊ぶ時間は少なくなってしまったが、小説を書く時間の方が大切だった。次いでに後輩と話す時間も。
「先輩。小説の進捗はどうですか?」
「あと少しで書けるよ。楽しみにしておいてくれ」
実を言うと今書いている小説を後輩に渡す気はなくて、他の物語を渡すつもりだった。浮気をしているって事をこんなに詳細に書いた小説を渡したら、誰でも怒るだろう。
「先輩」
「……なんだ」
「この小説より面白い小説、隠してますよね?それも私の地雷を踏みそうな奴を」
小説発表会の時、後輩は不満げな顔を露わにして僕にそう言った。
「……なんで分かった?」
「コソコソとスマホに打ち込んでいたのを見ちゃいましたから」
「……読んで怒らないか?」
「内容次第です」
僕は恐る恐るスマホを後輩に渡した。後輩は画面に張り付いて僕の書いた文章を読んでいた。僕は足が震えていた。
「先輩」
「……何だ?」
「この小説、めちゃくちゃ面白いです!」
後輩は今までで1番の笑みを浮かべてそう言った。
「早く続きを書いて下さい!どうなるんですか!?」
「落ち着けって……」
どうやら後輩はこの物語を完全なフィクションと解釈したようだった。僕は一安心して、続きを書くことを約束した。帰り際、後輩は
「私、1番が良かったな」
そう呟いていたのを、僕は聞き逃さなかった。
僕はもしかしたらこの陳腐な小説で賞が取れるかもと思って、とある短編小説の賞に応募した。後輩があんなに喜んでいたからというのもあるが、何も取れなくても出してみたかったのだ。僕は自宅の窓から見える雪に微笑みながら、寝床についた。
ここまで読んでいる読者の皆さん。ここから先は先輩は書いていません。先ほど名前が出た彩香と言います。先輩のスマホを使って書いています。盗みました。
単刀直入に言うと、私は先輩から暴力を受けています。今も顔のアザは残っていて、友達には雪で滑ってコケたと誤魔化しました。心配されたく無かったからです。
何を言っているか分からないと思いますが、どうか最後まで読んでください。
先輩は彼女に暴力を振るっていました。それは直接見たのではなく噂の範囲でしたが彼女には傷跡が絶えず残っていたのでそれを真実だとすぐに確信しました。私は彼女と友達でよく相談を受けていました。先輩は20人規模のサークルの部長だったので、私もそのサークルに参加しました。彼女にそう依頼されて証拠を掴むためです。先輩は酷く臆病者で、彼女に電子機器の一切を持つことを許さなかったそうです。
私は先輩の暴力の現場を引き出すために、先輩と親しくなろうとしました。この小説を読んでいる限りだと先輩は私に惚れていた様です。気持ち悪かったです。
私は文芸サークルで小説を書く傍らで先輩を監視しました。最初はすぐに証拠が取れると高を括っていましたが、なかなか尻尾を出しません。
私が暴力の対象になるのに時間がかかりましたが何とかしました。方法は想像にお任せします。とにかく私は証拠を掴みこうやって先輩の小説に書いています。本当は先輩の小説を消したいのですが、作品には罪はありません。どれだけ屑で救いようの人でも書いたものを無慈悲に消すことは出来ません。どれだけ表現が冗長で下らなくても、です。
私はこれからこのスマホを川に捨てます。盗んだ事がバレる前に、全てを終わらせる予定です。殺しはしませんし、雪を赤色に染め上げるつもりもありません。先輩にはそれ相当の罰を受けてもらいます。警察と裁判の働きに期待といった所でしょうか。
この文章をここに書いたのは先輩が捕まって刑務所に入って出てきた時にここを見て泣き叫んで欲しいからです。私も悪い人です。
ここでこの物語を終えます。最後に1つだけ。
私は先輩の事が、意外と好きでした。
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