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東京・新宿・歌舞伎町
「カズさん、酒くれよ!今日は飲みたいんだ。」
加藤初(かとうはじめ)はカウンターテーブルの左端に座り、ブランデーを煽っている。
「ハジメ、喉壊すぞ。」
「いいんだよ、やっと、3連チャンライブが跳ねたんだ。今日ぐらい飲ませてくれよ!ずっと、禁酒だったんだ。いいでしょ?カズさん。」
「ボーカルがアルコール煽ってるんじゃねぇよ。」
「怖ぇー。カズさん。マジ怖ぇー」
「売れるまでは飲むんじゃねぇ!」
そう言いつつ、真栄城和真(まえしろ かずま)はハジメの目の前にあるグラスにバーボンを注ぐ。その琥珀色の液体は直ぐにハジメの胃の中に溶けた。
「やっぱり、カズさんはボーカリストの気持ちが分かってくれてるよ。ライブで火照った身体を癒すのは、酒だけだって分かってるよ。ありがたいです。」
ハジメは注がれたグラスを一気に煽った。
「酒やめて、芸能界で売れるなら酒屋は姿を消すぜ。」
和真は相変わらず、口が硬い。
「カズ!今日の東京のコロナの人数、3桁だって!そろそろ、自由にお酒を出せるかな?」
キッチンから短い髪を茶髪に染めた仲間美由紀(なかま みゆき)が声を発した。
「さあね。流行病は先が分からんよ。」
和真はタンブラーに入ったアイスコーヒーを半分ほど一気に飲み干した。
蔓延防止措置の解除の空気は周りの店からも感じている。左隣りのキャバクラも二件先のクラブも営業時間を午前零時まで伸ばしている。政府の言うように9時までの蔓延防止措置での営業時間はこの歌舞伎町では守られるはずも無かった。
「しかしよぉ。今日のライブは湿気てたぜ、ソーシャルディスタンスとか抜かしやがって、客も半分も入れねぇ。金になんねーよ。」
「何言ってるの。それがハジメのバンドの実力じゃない?そんなものよ。ハジメのバンドだもの。」
美由紀が笑顔を振りまきながら、ハジメに酒を注ぐ。この時間になると、客はハジメと同じバンドの杏子の二人しかいない。30脚程ある客席はガランとしている。
「今日は特に湿気てんなぁ。客の入りも渋いし、その客もガキ2人だし。」
「カズのバンドのチケット、1枚いくらだったと思う?」
美由紀が悪戯な目付きでハジメ達を見た。
「1枚いくら?てか、カズさん、バンドやってたの?初めて聞いたよ。」
「美由紀、余計なことを言うな。」
「えーーっ。いいじゃん、カズさん自慢していいと思う。」
「カズさん、バンドやってたんすか?マジっすか?チケットって一枚、1万円ぐらいすか?嘘でしょ?」
「知らねーよ。遠い昔の話だ。もう忘れたな。」
「カズさん、ウチが覚えてるよ。受け取ったもん。チケット10枚で100万円。」
「一枚、10万!」
ハジメはひっくり返った。
「うるせー。美由紀、今日は口が緩いぜ」
「こんな夜だから言わせて。30年前の今の時期、そうよ。東京が梅雨に入る直前、私たちのバンドは産まれたの。」
和真は黙って俯いて美由紀の言葉を聴いていた。美由紀はしっかり、一つづつ噛み締めるようにゆっくりと言葉を発し始めた。
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