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16年間、使い続けているイヤホンがある。
アルバイトをしていない高校生が背伸びして払った8000円は、スタイリッシュなデザインをしていた。今にして思えば音質はさほど良くないが、当時は衝撃的だった。
大学を卒業して社会人、気づけば家庭を持ち父親となった僕の持ち物で、一番の古株になっていた。
受験勉強に苦しむ夜も、初めて交際した人と別れた昼下がりも、社会人になって憂鬱な朝の通勤時間も、妻にプロポーズする前の緊張に震える刹那も、そして父となった日も、僕の耳に音楽を届けてくれた。
たかがイヤホンだが、人生の節目にコイツがそばにいた。
音楽の趣味は変われど、それは変わらない。
ある日コードに傷がついた。
みるみる内に中身が露出して、ついには断線してしまった。いくらボリュームをあげても、うんともすんとも言わなくなってしまった。
もうコイツで音楽を聴けない。
もうコイツは人生の節目となるページを伴にしてくれない。
30半ばにして、悲しみの涙をこぼしてしまった。
あまりに落ち込んで見えたらしい。
「修理に出してみたら?すごく大切に使ってきたんでしょ、直してあげなよ」
妻はそう言って僕に「イヤホン修理承ります」と書かれたウェブサイトを見せた。
しかし随分と古い型だから、修理は難しいかもしれない。
ダメで元々だ。僕は修理を依頼してみることにした。
電話に出た人物は、どこか聞き覚えのある声色で型式を訊ねた。
「買ったのは16年前で分からない、イヤホン本体は黒色でSRと文字が入っている、赤いコードで」
「ああ、分かりました。修理できますよ」
彼は僕の言葉を遮りそう言った。
それから「お住まいが近ければ持ち込みだと安いですよ」と続けた。
住所を尋ねると、行ったことはないが電車で1時間ほどに店を構えているようだった。
幸い今日は時間がある。これから行きますと伝えて通話を終えた。
「修理できるみたいだ。近場だから、これから直接持ってくよ」
妻は「行ってらっしゃい」と僕を送り出した。
「帰りデザートよろしく」
はいはい。
店は古ぼけていた。築何年かも分からない佇まいで、来訪者を拒むような気配すら感じられた。
ここで合ってるよなと不安を覚えつつ軒先のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
呼び鈴もない店内は酷く無機質な色調で揃えられていた。
入口から奥、テーブルの前に座っていた人物がこちらを振り向いた。
「あ、え?」「え?あ」
どちらが口にしたか分からないほど、順序など存在しなかったみたいに、自然に漏れた声が重なった。
鏡写しとはこのことか。
まるで自分がもう一人、錯覚するほどに僕と彼はよく似ていると思った。
「ええと」「ええと」
「はじめまして」「はじめまして」
再び声は重なる。
先に気味が悪いと感じたのは僕か、彼か。
とにかく二人は目を逸らして、口を閉ざして、イヤホンを差し出してイヤホンを受け取った。
「いつごろ」「いつごろ」
「とりに」「とりに」
重なり続ける言葉が気持ち悪いと感じながら、
「きますか」「くればいいですか」
ようやく、違う言葉を口にした。
どちらともなく、日暮れにはと合意した。ふと今日は時刻を気にしていなかったと気づく。
何度もスマホの画面を見たはずなのに。
修理という工程がどのように為されるか知らない僕には、約束の時間が短くも長くも思えた。
店を出て当てもなくふらりと歩き出す。
見知らぬ街がどうしてか心地よく感じる。
ふと、既視感に気づく。
あの制服、なんだか見覚えがあるな。
あの大学、なんだか見覚えがあるな。
あの電車、なんだか見覚えがあるな。
あの女性、なんだか見覚えがあるな。
あの式場、なんだか見覚えがあるな。
あの家族、なんだか見覚えがあるな。
まるで。
アルバムをめくるような感覚、だった。
そうそう。
あの制服に袖を通していたなぁ。
初恋をしてフラれたこと、部活に打ち込んだこと、友人と放課後を過ごしたこと、将来の夢を見据えたこと、夢を叶えるために受験勉強に必死になったこと、今でもありありと思い出せる。
傍らには、ロックバンドの音楽があった。
彼らの音は、僕の青春だった。
そうそう。
あの大学で色んなことをしたなぁ。
初めて異性と付き合ったこと、アルバイトに打ち込んだこと、友人と深夜のファミレスで駄弁ったこと、思い通りにいかない現実を思い知ったこと、今でもありありと思い出せる。
傍らには、ギターを鳴らす少女の音楽があった。
彼女の声は、僕の支えだった。
そうそう。
あの電車で仕事に行ってたなぁ。
初めての出勤に緊張したこと、仕事に打ち込んだこと、同僚と居酒屋で潰れたこと、業務が多忙で辛かったこと、頑張って認められて嬉しかったこと、今でもありありと思い出せる。
傍らには、ボーカロイドの音楽があった。
機械の歌は、僕の心の代弁者だった。
そうそう。
あの女性に心を奪われていたなぁ。
学生時代の恋人と別れたこと、落ち込んだこと、人生で一番素晴らしい女性と出会ったこと、告白して付き合ったこと、初めて結ばれたこと、今でもありありと思い出せる。
傍らには、モダンジャズの音楽があった。
その優雅さは、彼女の魅力そのものだった。
そうそう。
あの式場で挙式したなぁ。
プロポーズを決意したこと、告白前夜に緊張して眠れなかったこと、勇気を振り絞って伝えたこと、彼女が僕の言葉に泣いたこと、花嫁姿の美しさに感動したこと、今でもありありと思い出せる。
傍らには、愛を歌う音楽があった。
ありふれた言葉が、僕の幸せだった。
そうそう。
二人が三人になったんだよなぁ。
妊娠を知って喜んだこと、おなかに語りかけたこと、分娩室の前でどうか無事にと祈ったこと、新しい命に大泣きしたこと、すくすく育つ姿に笑ったこと、今でもありありと思い出せる。
傍らには、優しい音楽があった。
幼稚な言葉の世界が、僕らの幸せだった。
いつの間にか約束の時間が近づいていた。
とても、とてもたいせつだったなにかを、かけがえのないことを、てばなそうとしているような、ふしぎなかんじょうが、あった。
刻限は迫っていた。
僕は、ざわつく心を押し殺すように、重い足取りで、その場所を目指す。
たどり着いた建物に足を踏み入れた。
「仕上がりました」「仕上がりましたか」
異口に発した僅かに異なる言葉の裏で、おそらくだが同じ感情があった。
たぶん、来てはならなかった。きっと、これまで避けてきたはずだった。
彼は頭を下げると、手中の赤いコードを操り先端を耳に挿した。
代金を受け取り損ねたと扉が閉ざされて気付いた。
その人物の顔も、声も、背丈も、訪ねてきた用件すら思い出せないと気づいたが、その違和感はするりと立ち消えた。変わらず、人気のない店内には古ぼけた呼び鈴が寂しそうに鎮座するばかりだ。
私は16年ほど前に購入したイヤホンを取り出し、耳につけた。
なぜか、知らない音楽が耳に届いた。
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