レンタルウエア

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「大丈夫だって、手ぶらで」  初心者のハードルを下げてあげようと、吉川は努めて明るい声でそう言った。  それだというのに、対する橋立は、くっと眉間にしわを寄せると、迷惑そうに首を振る。 「いや、いい」 「でもさ」  せっかくこちらの趣味に興味を示してくれたご新規さんを逃がしてなるものかと、吉川はさらに言い募る。 「続くかどうかもわからないのに道具を揃えるって、ハードル高いじゃん」 「ちょっと興味があっただけだ。やるとは言ってない」 「だから、ちょっと試しにやってみて、それで続きそうなら道具を揃えたらいいじゃないか。興味があるなら一度やってみるべきだよ」  言いながら、吉川はスマホを操作して、最近よく通っている工作室のSNSアカウントを表示した。4時間千円で作業場が借りられ、作りたいプラモデルなりガレージキットなどを持ち込めば、工具や塗装の道具や塗料もレンタルできる。新しい趣味としてプラモデルを始めてみたいが、家が汚れるのがちょっとと躊躇ったり、数々の道具を揃えるのを尻込みしている初心者にはうってつけだ。 「ほら、ボーリングでシューズ借りたり、スノボでウエア借りたりするのと一緒だろ。こないだはみんなでバーベキュー行ったときに、食材含めて一式レンタルしたじゃん」 「バーベキューのあれはレンタルなのか?」  確かに食材はレンタルというより購入だが、手ぶらで行ける、に重きがあるのだから呼び名などどうでもいい。要は、興味があるのに事前に調べるのが面倒くさくて諦める、という怠惰な顧客を逃がすものかという企業の努力が、ここ最近やたらと台頭してきたレンタルサービスの数々なのだ。  お互い、メリットしかないだろう。  そう思っていた吉川は、突き付けたスマホを覗き込む橋立の渋い表情を見て、はっと記憶を掘り返した。  昨年の冬、仲間とスノボにでかけたあの時も、橋立は今と同じように鼻の付け根に皺を寄せて、貸し出されたウエアを見下ろしていた。 「お前、潔癖症だったっけ」 「そうじゃないけど、誰が着たのかわからないモノは気持ちが悪い」  居心地が悪そうな顔でそう言いながらも、手ぶらで来たのだから仕方がないと、あの時は渋々ウエアに袖を通した。そんなこと来る前からわかるだろ、と突っ込みを飲み込んだ吉川だが、それ以来、橋立がどこかよそよそしい気がする。  だから今回、何気なく話したプラモデルの話に、橋立が関心を示したのが嬉しかったのだ。もしかしたら、拗れた関係を修復できるかもしれない。以前のように、学校帰りや休日に、橋立と馬鹿な話で盛り上がれたら楽しいのに、と。  だが、そのために、無理強いをして機嫌を損ねてしまうようなことになれば、本末転倒だ。 「あ、っと、ごめん。お前、人が使った物ってあんまり得意じゃなかったっけ」 「うん、ちょっと、あんまりいい思い出がなくって」  何かを思い出したのか、鼻柱に寄った皺が深くなる。 「なに、なに、聞いてもいい話?」  そうか、渋っていたのはプラモデルを始めることではなくて、レンタルサービスを利用することだったのか。それなら橋立を自分の家に呼んで、道具を貸せばいい。先行きが明るいぞと、吉川はそっとこぶしを握った。 「別に、話してもいいけど」  そう応えた橋立は、一瞬だけ迷うような目をした後で、奇妙に表情の消えた顔を向ける。放課後の教室から、最後の1人がこちらに手を振って出て行き、窓の向こうは灰青とバラ色に暮れていた。 「去年、スノボに行っただろ、みんなで」 「ああ」  やっぱりそれほど、レンタルウエアが厭だったのだろうか。焦りと若干の呆れを抱えて、吉川は目顔で先を促した。橋立は思案気に親指で顎を擦って、遠い目をする。 「あの時さ、俺がいなくなったの、気付いた?」 「あー、うん」  もぞり、と吉川は身じろいで、床を見つめた。ウエアが気持ち悪いと頻りに繰り返す橋立が面倒くさくて、あの時、吉川は初心者の橋立を残して、他の仲間と一緒に、先に上の方まで行ったのだ。  しばらく滑った後で、橋立がなかなか来ないのがさすがに気になり、誰かが探しに行った。それをたらたらと追って下りると、カフェで雪まみれの橋立が、蒼白い顔をして座っていたのだ。先に探しに行った仲間はばつの悪い顔をして、橋立をホテルの部屋に連れて帰った。みんなは滑ってていいよと言ってくれたが、当然、場は白けて、みんなも部屋に引き上げた。 「あの時、お前、一言も喋らなかったよな」  同室だった吉川がいくら話しかけても、橋立は機嫌を損ねたのか具合が悪いのか、ベットにもぐりこんだまま、返事をしてくれなかったのだ。 「ごめん、橋立」 「いや、いいんだ」 「だって、怒ってたんだろ」 「違うよ」  応えた橋立の目は、何の感情も映さず、黒く凪いでいる。窓の向こうで、バラ色の光が、灰色の中に溶けて消えた。 「ウエアを借りた時、俺、気持ち悪いって言っただろ」  ぽつりと声が滲んでいく。 「言った。神経質だな、ってちょっと面倒くさくて無視した。ごめん」 「別にそれまで、そんな風に思ったことなかったんだよ」  あの時まで。そう言って、橋立は小首を傾げる。そうだ。こいつは、体育の授業で強制的に着けさせられる、あの壮絶に臭い剣道の防具ですら、躊躇いもせずに手を伸ばしたじゃないか。あれこそ、誰が着たか、というより学校中の生徒が無差別に使っている共有品だ。きちんと手入れされたレンタルウエアの方が、遥かに清潔なはずだろう。それとも、同じ学校の生徒、というバイアスが安堵を与えるのだろうか。 「なのに、あのウエアを手にしたときに、すごく、厭だったんだ。でも、吉川も他の奴らも、全然気にして無かっただろ。だから、着ないって言い出せなくて」  水臭い、とは今だから言えることだ。あの時、あの場でそう言う勇気は、吉川にだって、ない。何と詫びればいいのか、そもそも誰の所為でもないのだろう。吉川は、唇を噛んで謝罪を飲み下す。 「まあ、後で風呂に入ればいい。そう言い聞かせて着た。けどさ、やっぱり気持ち悪くて」 「ずっと言ってたよな」 「うるせえ、って思っただろ」  唇の端だけで、橋立が笑う。 「俺だって、自分でそう思ったよ。だから置いていかれた時、正直ほっとした。脱いじゃおうって思ってさ、あの場で、ウエアの前を開けようとしたんだ。そうしたら」  橋立の指は、胸元を握りしめて、はた目にも白い。 「『レンタルだろ』って声がした」 「え?」 「知らない男の声だった。それ、レンタルだろ、ってまた聞かれて、反射的に頷いた。周りに人はたくさんいたから、その中の誰かだと思ったんだ」  天井の蛍光灯が、ちりちりっと、瞬く。橋立は相変わらず、薄く笑って瞳を揺らしていた。 「でも、違った。誰かが、俺の腕を掴んだ。隣には誰もいなかった。ウエアの内側から、何かが身体の中に入って来た。服を着るみたいに。俺は押し出されて、倒れた」  へへ、っと場違いな笑いが、橋立の唇から漏れる。 「気づいたら、俺は俺の身体にしがみついていた。振り落とされたら、おしまいだと思った。周りにいた人たちが、俺の身体を助け起こして、大丈夫かと聞いていたけど、大丈夫なわけがない。その身体に、俺は入っていないんだ。無理やり背中におぶさってたら、お前たちが来た。助けてって言ったけど、誰も聞いてくれなかった」  橋立の目は、ぬるぬると黒と蛍光灯の明かりにぬめっている。 「部屋に戻って、誰かがウエアを脱がせた。やっと俺の身体に俺が触れるようになって、死に物狂いで突っ込んだ。中にいた奴は、ウエアがないから、もう戻れないって言って」  あは、と乾いた知らない声が、橋立の喉から漏れ出す。 「今も身体を借りてる」  にたり、と知らない眼差しが、嗤っていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加