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第8話 タダシくんの見たこと
「目の前で見た、ってどういうこと……?」
僕は恐る恐るタダシくんにたずねた。
タダシくんの見間違いとか気のせいとか、そうであってほしいと願いながら。
タダシくんは、いつものクセで、ふうっとため息をついてから話し始めた。
僕は6時25分三郷駅発の電車に乗っていた。
本当はこんなに早い時間の電車じゃなくてもいいんだが、今週末にある学園祭のクラス委員に選ばれてしまったせいで準備のためちょっと早めに登校しないといけなかった。
電車の中の人はちらほら。
3両編成の普通列車で、僕が三郷駅で乗った車両の中には、僕以外には7人乗っていた。
7人のうち3人は県庁所在地の長野市に出勤する会社員で、後の4人は僕と同じ香坂台学園の生徒や、長野市の高専に通う生徒など学生。
通勤用車両のロングシートに各々離れて座っている。殆どの人は一様にスマホに目を落としていた。
一組だけカップルなのか、ロングシートに座った長野市内の高校の制服を着た女子高生の前に同じ高校の制服を着た茶髪の男子高校生が吊革をつかんでだらしなく上半身だけぶら下がるように背を曲げて立っていて、何かしゃべりながら吊革の揺れで女子高生に近づいたり離れたりするのを楽しんでるみたいだった。
電車は通学する高校生の利用が大半で、社会人はだいたい車で会社に出勤している。
駅から離れた場所にある会社も多く、今はみんな車で移動する方が何かと便利だから、社会人で電車通勤の人たちはどんな理由で電車を使っているんだろう? って、いつも聞いてみたい気がする。聞けないけど。
ガラガラの社内は余裕で座れたので、僕は他の人から離れたロングシートの一番左端に座った。
香坂台学園のある高丘駅までは三郷駅から20分弱。7時からの学園祭準備には余裕で間に合う。
僕は面倒なクラスの出し物の各係の進捗状況などを頭の中で考えながら電車に揺られていた。
高丘駅の2つ手前、ターミナル駅の陣場駅で、他の路線からの乗り換え待ちで少し長く電車が停車する。
僕らの車両にも長野市に行く会社員や高校生が15人くらい乗り込んで来た。
ここから先はちょっとずつ電車が混み出す。でも都会の通勤電車に比べれば全然空いている。
「3番線、普通列車長野行き、間もなく出発します」
構内アナウンスが流れたタイミングで連絡通路の階段を駆け下りてきた30代くらいの会社員が一人。僕の座る席から一番近い乗車口に飛び込んで来ようとしていた。
必死だなあ、そんなに急ぐならもう少し早く起きて準備して、余裕をもって家を出ればよかったのに。
僕はそんなことを考えながらその会社員の必死の表情を眺めていた。
電車の発車を知らせるプルルルルル……という発車ブザーが鳴り響く中を、汗だくで息を切らせ、鼻水も垂らしながら必死にこの電車に飛び乗ろうとした会社員の苦しそうな表情が、次の一歩を前に出した瞬間、驚愕に変わった。
前に出した右足が着地すると同時に、まるで地面が急に水になったかのように右足がスポッと膝まで地面に沈み込んだように僕には見えた。
会社員はバランスを崩してそのまま前のめりになってホームへ倒れこみ、本当に水しぶきが上がって水の中に沈んだみたいに全身が見えなくなった。
晴れて水気のないホームから水しぶきなんて上がるわけがない。
よく見ると、水しぶきに見えたのは砂だったんだ。
水しぶきのように跳ね上がった砂は、水よりも早くホームに落ち、砂煙をあげて積もった。
僕はほんの5m前のホームで何が起きたのかわからなかった。
「扉が閉まり」
発車のアナウンスが中途半端なところで止まると同時に電車内で一斉に「うわっ」とか「きゃあっ」とか悲鳴が響いた。
周りを見渡すと、乗客が乗っていたはずの座席に、たくさんの砂があちこちに積もって、砂埃が舞っている。
僕の乗っていた車両の中の人全員が、砂の山を残して一瞬でいなくなってしまった。
……かと思ったら一人、片手で必死に吊革につかまってぶら下がっている高校生の男子が見えた。
前に座っていた女子高生とおしゃべりしていた茶髪の彼だ。
男子高校生は吊革から放した片手を、目の前の女子高生が座っていたところに積もった砂の山に伸ばして必死につかみ「アキーっ! ぅわあああぁっ」と、多分彼女の名前を叫んでいた。
男子高校生の足はふとももの辺りまで電車の床にめりこみ、男子高校生の体が接している部分の床に砂が少し積もっている。
男子高校生は足で体重を支えられなくなったので吊革に完全にぶらさがっていて、前後に床に積もった砂を散らしながら揺れている。
よく見ると、彼の体の揺れに合わせて、彼の体から座席や床に積もっているのと同じような砂がこぼれている。
僕は男子高校生に駆け寄った。
駆け寄って何が出来る訳じゃないけど、でも、無意識にそうした。
男子高校生は駆け寄る僕の足音が聞こえたのか、僕の方に顔を向けた。
茶髪の男子高校生の顔は悲しみなのか歪んで、らしくもない涙で濡れていたけど、僕と目が合った瞬間なぜかフッと笑って吊革をつかんでいた手を放したんだ。
手を放した男子高校生の体はそのまま重力に引かれて落下し、床と接した部分から砂の水しぶきと砂煙を上げながら沈んでいった。
後には盛り上がった砂の山が残った。
僕には、男子高校生が砂の山になりながら地面の中に吸い込まれたみたいに見えた。
僕は昔から落ち着いた子供だって言われてきたけど、それは外見にあまり出ないだけで、内心は凄く動揺している。
その時も、目の前で起こったことが一体どういうことなのかわからなかったし、自分も他の人みたいに砂になりながら床や地面に吸い込まれていくんじゃないかって思うと、足をその場から一歩も踏み出せなかった。
本当に自分が立っている地面や床がしっかりと自分を支えてくれるものなのかって疑いだすと、立っていられないくらい怖くなった。
だけど、へたりこんでしまったら、それこそそのまま砂になって地面に僕自身がめり込んでいってしまう、そう思うともうそこから身動きできなくなってしまったんだ。
どれくらいそうしていたのかわからないけど、ずっと動けずにいた僕の背後で、電車の車両同士を行き来する貫通路の扉が開く重たい音がした。
僕は誰か来た、と思って振り返りたかったけど、動けない。
うしろから来た人物は、僕の背中をドンッと突き飛ばした。
僕は前によろけた。
よろけた僕の足は、男子高校生が作った砂の山に突っ込んで転びそうになったけど、何とかバランスを取って踏ん張った。
そう、僕の足は、電車の床を、しっかりと踏みしめられたんだ。
僕は内心嬉しかった。乱暴だけど背後の人は、言いようのない怖さから僕を解放してくれた。
でも僕は虚勢を張ってムッとした表情を作って振り返った。
いきなり人を突き飛ばすなんて、どんな奴だ、ってね。
そこにいたのが竹内亜美さんだった。
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