第六十一話 リング

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第六十一話 リング

「で…こうなるわけか」  10月に入った。  藤村に“誘われた”夜から一週間が経ち、またやってきた金曜の放課後。  伊緒は、もう一度、藤村の指導を受けたいと六堂に強く申し出たのだった。  伊緒が、オープントーナメント出場に関することで希望する以上、六堂は出来ることはするつもりではいた。  そして藤村との組手をすることになったわけだが…。  道場内の小型のリングの上で、対角線上に立つ藤村を見ると、それはもう楽しそうな顔をしているのが伝わった。 「ちょっと、伊乃さん!こ、こ、これどういうこと!?」  “今日は一緒に行く”というので、ウキウキしながら六堂の運転する車の助手席に乗って吉祥寺まで来た伊緒。  しかし、先週の夜、ここで六堂と藤村の間ににあったことなど、全く知らない伊緒は、今のこの状況にただただ驚くばかりだ。 「あれれー、誰あいつ?」  伊緒は、後ろから聞こえてきたその声に反応し、振り返った。  それは自分に似た背丈の女性、“小林 由美”だ。 「あーほら、出稽古に来てる“その子”の指導者なんだってよ」  道場にいた他の練習生たちも、手を止め、リングの周囲に群がっていた。その内の一人が、伊緒を指差し、由美にそう説明をする。 「…あいつ、あの格好でやんの?」  由美は、六堂を少し見下した感じに見つめ、そう言った。  それもそうだろう。  普段から武道、格闘技をしている者から見れば、Tシャツにジーパンというのは、これから組手を行う服装とは思えない。  六堂は靴下を脱いで、ジーパンの上から、レガースを装着した。  そして、オープンフィンガーグローブの手首のマジックテープをきゅっと締めると、深くため息をつく。 「あーあ、こんなに注目されるなら、先週のあの夜にやっときゃよかったかな…」  ぼそっとそんなことを呟く六堂の顔に、闘志は感じられない。  藤村は対照的だ。 「おいおい、何なん?先生何であんな奴と組手なんてやんの?」 「さあ…」 「でもほら、先週ちょっと見てたけど、あの子は上手いのよ」 「ああ、可愛いしな」  伊緒の耳に、周囲からのそんな声が聞こえてくる。  六堂という“よく分からない人物”が気になることもあるが、練習生たちは、現役を退いているとはいえ、師である藤村の闘いぶりが見たいといった雰囲気だった。  藤村はノリが軽く、口も良いとは言えないが、指導者としては、特に打撃に関しては一流であり、練習生にとっては尊敬出来る存在。  レジェンド、“ノックアウトアーティスト”が、どんな攻防をするか、期待せずにはいられない。  そんな練習生たちを退け、伊緒は六堂が立つコーナー側に駆け寄った。   「伊乃さんってば!聞いてるぅ?」 「あ?」 「だから、何で来て、いきなり、何も言わずにリングなんて上がっちゃったのってばあ」 「……それは、お前はあまり気にすんな」  六堂はそう言うと、軽く背筋を伸ばし、深くため息をついた。  そして、すうっと鼻から息を吸うと、気怠げだった顔が急に引き締まった。 「お、スイッチ切り替えたねぇ、探偵さん」 「…ま、組手(スパー)と言えど、集中しないと怪我するんで」 「またまたぁ…。お互い教え子の前で恥かけませんもんね」 「…別に。先週も言いましたが、私は武道家でも、格闘家でもないんで、その辺気にしてないです」  六堂と藤村は、リング中央までお互い歩を進め近寄る。  身長では、僅かに六堂が高く、藤村の目線がやや上になった。 「じゃ、探偵さん…期待してます。楽しい三分にしましょう」  だが、その身長差は全く問題ないようで、藤村は、子供がまるで楽しい遊びを待ってるかのような笑顔を見せた。 「あなたの見立て違いならないよう、頑張ります」  六堂は一礼をすると、藤村は腕を交差点させ「押忍」と十字を切った。  コーナーに戻ってから六堂が取った構えは、開手。左手を前に出し、距離を取りながらの守りの構えだ。  藤村は拳を顎の当たりまで上げると、重心を前後五分五分にしたアップライトに構えた。  左膝を軽く上げてステップをリズムよく踏む、ムエタイスタイルだ。  そして、タイマーがスタートを切ると、互いに向かい合ったまま、左に、左に回る。  しかし、僅かに藤村が間合いを詰めきていた。  少しずつ、射程に近づく。   「探偵さん…ごめんねぇ、“俺の土俵”でさ」 「…いいえ」  藤村の言う、その意味…。  それは、“リング”のことだ。  六堂は、武道家でも格闘家でもない。  彼の戦闘術は、実戦向き。場所は選ばないが、リングというロープに囲われ、限られた四角の中というのは想定していない。  例えば、畳の上やマットなど、広々とした場所ならば特定のスペースでも対応も難しくはないが、リングの中というのは、競技性を考えた場所であり、思っているより特殊だ。  それも、ここのリングは小型だ。  過去、権力者たちの集う地下において、パーテーションで囲われた中で、下品な格闘ショーに付き合わされたことがあったが、その時にも、このリングほど狭くなかった。  藤村は、六堂の強さを見抜いたが、“そういうタイプ”だということも察していた。  その上で、リングでのスパーに持ち込んでいる。 「藤村さん、あんた技術だけじゃないね。既に駆け引きは始まってた…。私は…俺はそこにハマったわけだ」  六堂がそう言うと、藤村はニヤリと口角を上げた。 「そゆことぉ」  次の瞬間、藤村の顔から笑顔が消え、目つきが鋭くなった。  その目を見て、六堂は苦笑する。 「おいおい…立ち会いじゃなくて、組手(スパー)じゃないのかよ」  射程に入るか入らないか、ギリギリのライン。藤村は、つま先がそのラインに触れた瞬間、鋭いジャブを放った。  だが六堂は、前に伸ばしていた腕で邪魔をして、ジャブを弾いた。  バチーンッ!  激しい音が、道場内に響く。  それは六堂が、藤村のジャブを弾いた音ではない。  下段蹴(ローキック)り。  ジャブが飛んできたと思った瞬間、藤村は、右脚で鋭い下段蹴りを放っていた。  その蹴りは、六堂の左膝上の、筋肉のない部分をピンポイントで打ち抜いた。  伊緒は、目を広げた。  最初に放ったジャブは、決してフェイントとは言えない鋭さがあった。  恐らく、当たればそのままダメージになったであろう。六堂も、その危険を察して回避したはずだと。  だが、狙いは、下段蹴りだった。  まさに、本気で打つ気のフェイント。  外から見ている以上に、藤村から放たれる圧は、初弾のジャブを放たなくとも何か攻撃が飛んでくる、六堂をそんな気にさせたていた。  受けた下段蹴りは、鉄パイプで叩かれたかのような、そんな感覚だった六堂。それも脛にレガースを装着した上でだ。  表情が変わらない六堂だが、リング下の伊緒は、今の藤村の一発で、冷や冷やせずにはいられなかった。
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