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第十一話 世界を獲れた男
鶴田の放ったパンチは、“左ジャブ”。
“ジャブ”と聞くと、“駆け引き”や“話し合い”で探りを入れたり、相手の出方を見る時の比喩でも用いられることもあり、一般に『軽い』と認識を持つ者も多い技だが、それはとんでもない誤解である。
脱力した状態からノーモーションで、ムチのように打ち込む打撃。それをまともに喰らった時のダメージは思っているより大きい。
何よりそれがボクサーのジャブならば、打ち込む際の同時ステップがまた厄介な程に速い。それがジャブである。
そして鶴田のジャブは、重く正確で、いつ放ち、いつ当たったのか判断が出来ないほど完成されていた。
二発目をもらって、伊緒はようやく喰らった攻撃が左ジャブだと認識した。
競技としての知識はないが、鶴田が使っている技術は間違いなくボクシング。
伊緒はペッと切った口内の血を吐き捨てた。
リングで行なわれるスポーツ競技のボクシングを、このビルの床で、バンテージもグローブも着けずに、ここまでこなすのは、高い技術に加えてストリートでの実戦を相当経験してきたからだろう。
そう思った伊緒は、首を左右に伸ばしストレッチをし、頭部のダメージを確認した。
「“Warrior giri”ちゃん、どうしたの?噂と違うねえ」
リーダーは笑いながら煙草の煙を吐き出した。
「ま、お前の強さが噂通りだとしても、その鶴田には勝てないだろうなあ。こいつの強さ並じゃなえ」
鶴田、名は皇士というらしい。
元プロボクシングのフェザー級の日本ランカーだ。
その実力は、世界王者確実と言われていたが、彼は国際試合を経験することなく、競技生命を絶たれることとなった。
ボクシングという競技は、良いコーチ、良いマネージャー、腕利きのプロモーターとの出会いがないと、世界に通用する実力を持ちながら、試合を組まれないまま競技人生を終えることになる。
実際、日本国内で、そうなった選手は多く存在する。
実力があり、そしていい人間に巡り合えば、日本タイトルなどでグズグズと年齢を重ねる前に一気にアジア戦、世界戦と組まれるのがボクシングの世界だ。
この鶴田は、要するに出会う人間に恵まれず、落ちぶれた実力者だった。
「こいつは、才能を妬んだ同じジムのボクサーに、暴力事件の濡れ衣を着せられハメられたんだ。それが理由で、名プロモーターからも見限られた過去を持つ」
リーダーの話によれば、元々は真面目な人物だったらしいが、くだらぬ濡れ衣で人生を奪われた怒りは、その真面目さ故に相当なものだったという。濡れ衣を着せたジムメイトのボクサー、信じてくれなかったジムの会長らを半殺しにしたのだそうだった。
「俺はその才能を腐らすのは勿体ねえと、思ってよ…酒に溺れていたところを、仲間に誘ったんだ。今じゃ地下格闘技のチャンプだ。それなりに金は稼いでいるぜ」
「地下…格闘?」
「ああ、当たり前だが、ボクシングにおけるボクサーの相手はボクサー。どんなに強くてもルールの中で闘う競技者だ。だがこいつは、何でもありのルールの中で、自分の技術をそれに対応するべく消化させた、どの状況でどんな相手でも、持っている“世界レベルのボクシング技術”を活かせる、ストリートファイターになったってわけよ」
――…それは、これまでと違うわけだ
鶴田の強さに納得した伊緒。同時に、“相当マズい奴”を相手にしていると察した。
「…本気、出さないとだね」
伊緒は小さな声で呟くと、すううっと鼻から空気を吸い、「はああっ!」と気合いの声を張り上げた。
すると風でも吹いたかのように、伊緒を中心に部屋の中の空気が揺れた。騒めく男たち。
鶴田はその感覚に、伊緒が“何かした”ことを察し、どっしりした構えから、体を揺らすような小刻みなリズムでステップを踏み始めた。
鶴田相手に待ちの戦法は意味がない。そう考えた伊緒は、次は先手を取ることにし、気功を発したのだ。鶴田の感じた“何か”はそれだ。
鶴田は表情を変えず、手のひらを上に向け“かかって来いよ”と、手招きをした。
それを見た伊緒は、一足飛びで鶴田に飛び込んだ。
超スピードで一気に鶴田の間合いに入ると、拳打による連続攻撃を放つ。
目にも止まらない伊緒のラッシュ、ラッシュ、ラッシュ!
だが鶴田は、全ての拳打を紙一重で防ぎ、避け、そして伊緒に的を絞らせないよう、軽やかなステップで撹乱した。
伊緒はそんな鶴田の動きを止めるために、拳打のフェイントから、脚を狙い下段蹴りを放った。しかし、それすらもステップで避ける鶴田。
ボクサーなら“脚を狙われるのは不慣れ”ではと考えたが、地下格闘技のチャンプであり、ボクシング技術で何にでも対応できるという話は嘘ではないようだ。
鶴田は、空を切った下段蹴りの隙を逃さず、衣緒の顔目掛けてカウンターの右ストレートを放った。
「くっ!」
まるでミサイルのようなストレート。勢いよく打ち下ろすパンチは、衣緒の頰を掠る。
擦りながらも衣緒はかわしきり、今度は更なるカウンターで、飛び膝蹴りを鶴田の顎目掛けて放った。
直撃だ。
ゴッ!という鈍い音を立て、鶴田の首は反対側に思い切り仰反った。
手応えを感じた伊緒は、着地したと同時に、両手で鶴田の腹部目掛けて渾身の追撃を喰らわせた。
ドゴッ!という鈍い音が響く。
その衝撃は、どう見ても小柄な少女が放ったものに見えず、周囲の男たちは声も出さず全員目を大きくした。
“くの字”になり、よろめいた鶴田は、床に片膝を着く。
“鶴田が膝を着く”ことなど見たことがなかった男たちは、それをやった相手が小柄な少女である光景に、信じられないといった顔で全員静かになった。
特に彼女に“やられたらしい”、有馬と日下は顔を青くしていた。
それでも、ソファーに座るリーダーは表情を変えることなく煙草を吸っていた。楽しそうに“観戦”しているという雰囲気だ。
そしてリーダーが余裕の顔を浮かべている理由はすぐに分かった。
鶴田はふうっと息を吐くと、ゆっくり立ち上がったのだ。
――マジ!?今の喰らって…
顎へヒットさせた強烈な膝、そして腹部への追撃は気を込めた”気功拳”の直撃だった。
「凄え打撃だ。腹に喰らった一撃は、二階級は上のパンチ並だったぜ」
鶴田は、赤くなった顎を摩った。
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