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第四話 組手
誰もいない文化部の部室棟前。
周辺は本当に静かで、聞こえるのは敷地内から部活の音と、青空の中で囀る鳥の声だけ。
そんな中、サンドバッグの吊るされた木の前に立つ、伊緒と六堂。
「しかし…やるって言ったけどさ、これって誰か先生に見つかったらヤバいよな?」
六堂は両腕を上げ、背中を後ろに仰け反らしながら言った。
「文化部なんて、先生滅多に来ないよ。それに春休みだし、何人も来てないし」
伊緒は答えると、やや前傾気味の姿勢を取って左脚を前に出した。ザッと音を立てて足元に少し砂埃が舞う。
そんな伊緒に合わせるように、六堂は反らしていた背中をピンと真っ直ぐに戻すと、拳を軽く握りながら腕を真っ直ぐ下ろし、構えを取った。
セットしたインターバルタイマーが、もうすぐ鳴る。それが合図だ。
伊緒の身長は150cmちょっとかと目測する六堂。174cmの自分にとってみれば、まさに“大人と子供”の体格差だ。
これが何かの格闘競技なら、成立はしないだろう。
しかしこれは実戦に近い組手だ。マットでも畳でもなく、やや凹凸のある地面。そしてロープも場外もない。
――さてこの娘…どう距離を詰めて俺の懐に入ろうとするやら
昨日の伊緒の打ち込みを見る限り、足腰は相当強く、スピードはかなりあるだろうと判断する六堂。素速く小柄な体格の相手を捉えるのは、大きい方にとっては難しい。
ピーーーッ!
タイマーがスタートの合図を鳴らした。
六堂は、まず伊緒の出方を見るために、軽い牽制のパンチを放ち、そして左の前蹴りで距離を取ろうとした。相手に入ってこさせず、自分に有利な距離を取る、身長の高い方の常套手段だ。
しかし伊緒は、六堂の放った前蹴りをサッと捌いて一気に懐に入ってきた。物凄いスピードだ。
――な…!
伊緒はニヤリと笑い、片足になっている六堂の軸足を蹴り払うべく、下段蹴りを放った。
体を“くの字”に折り曲げた、体重を乗せた下段蹴りだ。
いくらアンバランスな体勢とはいえ、自分より“遥かに軽い”伊緒の蹴りで、軸足が払われることなどないと、六堂は瞬間思った。しかし…
「…っおわ!」
それは甘かった。
バシッ!と蹴られた軸脚は完全に刈られた。六堂は自分の体が無防備に宙に浮いたのを感じた。
だが、そのまま落下せず上手く着地してバランスの良さを見せる六堂。
そんな彼に、伊緒の追撃は続く。
咄嗟の着地で中腰気味になった六堂の顔の位置は下がっている。
伊緒は自分の背丈でも顔面に届きやすくなったその頭部目掛けて、右の上段回し蹴りを放った。
まさに弧を描くような軌道の、綺麗な上段蹴りが六堂の顔面を襲う。
――くぅっ!あぶね
ドッ!と、レガースの鈍い音が鳴り響いたが、それは六堂の左腕に当たったものだった。
しっかりとガードを間に合わせた六堂は、今度は逆に伊緒の方が片脚になっているのを見逃すことなく、カウンターの右ストレートを打ち込んだ。
ところが伊緒は、“右脚を地面に着けることなく”、ストレートをスウェーでかわした。
拳が空を切ると、六堂は伊緒の身軽さとバランスの良さに、目を見開き驚いた。
伊緒は、ガラ空きになった六堂の顔面目掛け、今度は垂直に蹴り上げた。左足刀だ。
“顎下の死角”から来る蹴りを、六堂は肌で感じとり、左肘でガードした。
小さく舌打ちをし、一旦バックステップで距離を取る伊緒。
その多彩にして、鋭い蹴り技に、六堂は本当に度肝を抜かれた。
ストリートギャングに襲われていた記憶が、先入観を持たせていたのかもしれないが、それを差し引いても余りある実力だと、六堂は彼女に対して鷹を括ってことを自身で感じた。
――マジか。葉月先生、この娘どうやって育てたんだよ…
僅か十秒ほどの間のハイレベルな攻防。
しかし流れは伊緒寄りだ。本人もそれを実感してか、自信に満ち溢れた表情をし、ザッ、ザッとステップを踏んでいる。
「最後のキックは、直撃したと思ったのになぁ」
残念そうな、でも嬉しそうに言う伊緒。
「…悪い、少し甘く見てた」
六堂はスッと体勢を直すと、鼻から空気を吸って、口からふううっと吐き出した。
伊緒は軽快なフットワークで、右に左に揺さぶりをかけている。そして六堂が爪先を出すと、その分後退する。
こちらから距離を詰めようとしても、あの身軽さで射程に入れてもらえないだろうと判断した六堂は、ニヤリと笑った。
そして左脚を前に思い切り開き、前進しないままで、その場から左ストレートを放った。
足を前に大きく開いた分、伸びる左拳。
だが距離の離れた位置からの無理な体勢のパンチは、スピードが殺される。伊緒は完全に見切り、笑みながら余裕でかわした。
しかし、次の瞬間…
「…えっ!?」
伊緒の身体が吹っ飛んだ。
どうなってるか理解出来ず、宙に浮く伊緒。
六堂の放った左手は、“ストレートと見せかけて”、伊緒の右手首を掴むために伸ばしたものだった。
左拳は、接近すると同時に開き、“パンチをかわしたと思い込んだ”伊緒の手首を掴み、六堂は勢い良く自分に引き寄せた。
相手が体格で勝る相手なら無理だが、小柄な伊緒を引っ張り込むのは容易なこと。
グンッ!と引き込まれた伊緒は、その勢いのまま、突き出した六堂の右肩を喰らい吹っ飛んだのだった。
本来この技は、膝や膝、頭突きを当てるのだが、六堂はダメージを考えて肩に、それも腕に近い部分に当たるよう切り替えていた。
“何をされたか分からない”伊緒は、地面に背中から落ちた。
「くあっ!」
受け身を取りはしたが、目を開けると、六堂の拳が顔の前に来ていた。
「…ま、まいりました」
見上げる伊緒に、六堂は突き出した拳を解いて、手を握って起こすのを手伝った。
負けはしたが、伊緒はドキドキしていた。
――ヤバい、最高っっ!
サンドバッグを叩く姿を見て“腕が立つ”のは分かっていたが、伊緒は内心、最初の攻防で降参させるつもりでいた。
「いつつ…」
「どう?もう一度、やる?」
「いえ…十分…今回は」
時間にして三十数秒ほどだったが、とても濃い時間だったと満足した伊緒は、体育着に付いた砂埃をパンパンと払いながら、遠慮した。
「…そういえば、さっきも聞きましたが、伊乃さんは何してる人なんですか?格闘家?」
(ああそうか、答えてなかったな)と思った六堂は、組手のためにベルトから外していた、探偵のライセンスのバッジを見せた。
「俺は、これほら、私立探偵だよ」
聞いたことはあるのに、聞き慣れない職業。そして初めて見るバッジ。さっき体感した強さも相まって、伊緒は六堂が“ちょっと特別な人”に見え始めた。
「へえ…探偵さん。ん!探偵さんって、伊乃さんみたいに皆強いんですか?」
「え?」
彼女の興味は“そこ”なのかと、六堂は苦笑した。
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